ある作家のエッセイを読んでいたら、自身のブログについての話があった。
ひと月のアクセス数が三百万を記録したとある。パソコンが苦手で、これまでも人に勧められて何度かwebサイトをつくったもののつづかなかったはず。でも、今回のブログは順調に更新しているんだなあ。
と思い、見に行って驚いた。誰と対談で会った、どこそこでこんな服を買ったという話が写真とともにアップされているのであるが、「へえ、そうなんだー……」以上の感想が生まれない。はっきり言って、ものすごくつまらなかったのだ。
その作家の文庫本になったエッセイはすべて読んでいるし、講演会に行って手紙を渡したこともある。そんな三十年来の読者である私がブックマークすることなくページを閉じた。
「これだったら、私がいつも読んでる日記のほうが断然おもしろいな」
とつぶやいてふと思い出したのは、むかし読んだ林真理子さんの「文章読本」の中のこんなくだりだ。
有名人でもなんでもないあなたが誰と食事をし、どういう話をしたかなんて知らされても誰も喜ばない。あなたがどんなふうにご主人と出会い、どんな子育てをしているかなんて聞かされても誰もうれしくない。しかし、そこのところを勘違いしている人がとても多い。
「誰もあなたのことなんか知りたくないのだ」
素人の人はこのことをまず心に刻みなさい。それでも手記やエッセイを書きたいと思うのなら、相手の耳をこちらに向けられるようおもしろいものを書くための努力を必死でしなさい。さもなければ、誰にも読んでもらえないものをひたすら書き続ける「投稿おじさん」「投稿おばさん」になってしまう------という内容だ。
これを初めて読んだのは二十年近く前であるが、そのときすでにweb上で文章を公開していた私は「厳しい言葉だけど、そのとおりだな」と思った。
なにを食べた、誰と遊んだ、といった他愛のない話を楽しみにしてくれる人がいるとしたら、恋人と故郷の両親くらいのものだろう。精進しなくっちゃと思ったものだ。
しかしながらいま、私は林さんの言う“素人の人”がブログなどに書いている文章を読むのがとても好きで、その身辺の話に十分楽しませてもらっている。
自分が書きたいから書き、それを「ひとりでも多くの人に読んでほしい」と願う人はおのずと“努力”することになる。結果として、作家が著書の宣伝とファンサービスのためにブログにあげる文章よりずっと読み甲斐のあるものになっている。
「好きこそものの上手なれ」というように、この「書きたい」という衝動にはプロといえどもかなわないことがあるのだなあ。
そして私はきっと来年も、名も知らぬ人たちの結婚生活や子育てや仕事の話に舌鼓を打つのだろう。
自分自身を振り返ると、「誰のためにも書かない。」(2021年9月5日付)に書いたように、私は「自分が納得のいく文章を書きたい」という思いひとつでここまできた。
どれだけの人に読まれたかではなく、更新したあとにも何度でも読み返したくなる文章であるかどうかが、クオリティの指標。私は投稿おばさんになることより、自分が自分の熱心な読者になれないことのほうが百倍怖い。
読み手あっての日記書き。書き手あっての日記読み。今年も私の趣味を支えてくれた人たちに感謝の気持ちでいっぱいだ。
「そこにいてくれてありがとう」
みなさま、どうぞよいお年を。
【あとがき】 今年は41本のテキストを更新することができました。多忙な毎日の中で、これだけ書けたら上出来。 2022年もよろしくお願いします。 |