先日、『週刊文春』で劇団ひとりさんのエッセイを読んだ。
自分には友人が少なく、親友にいたっては一人もいないかもしれない。なぜか。人と深く付き合うことを避けてきたから。人間嫌いというわけではないのだが、人といると相手の顔色を見たり場の空気を読んだり本音を呑み込んだりしなくてはならないので疲れてしまう。そんなのは仕事場だけで十分なので、飲みに誘われても断ることが多い。
……という話を酒の席である人にしたところ、「素直な自分でいればいいんだよ」と言ってくれたので、「じゃあ眠いので帰ります」と言って失礼したら、以後連絡がない。そういう“素直”な人にならないようにするにはよほど気を遣わなくてはならない、それが嫌だからプライベートは一人でいたいのだ------という内容だ。
人との関わりを最小限に抑え、できるだけ“我慢”をせずに済むようにしようという考え方にはあまり魅力を感じない。コミュニケーションは生活するのに必要な分だけで結構、という人が世の中にあふれたら不気味だとも思う。しかしこの文章を読んで、「まったくの他人事でもないぞ」とはっとすることがあった。
ある朝、入社したばかりでまだ挨拶しかしたことのない女性と駅のホームで一緒になった。会社に向かって歩きながら話していたら、偶然私と彼女が同じアーティストのファンであることがわかった。どのアルバムを持っているか、どの曲が好きかといった話でひとしきり盛り上がった後、彼女が言った。
「そうだ、小町さん、今度一緒にコンサート行きません?MCもすっごくおもしろいんですよ」
「そうなんだー。でもチケット取るの難しいよお」
このとき私が行くとも行かないとも言わず、チケットうんぬんと返したのは彼女の誘いにひるんだから。
コンサートには興味がある。しかし、私と彼女はほんの十分前に初めて言葉を交わし、どの程度気の合う相手であるかもわからない。そのため、「行きたい!」より「ちょっとしんどいな……」という気持ちが先に立ったのである。
「この人と休日の一日を楽しく過ごせるだろうか」なんて心配はまるでしないで私を誘う彼女のフレンドリーさには驚き、感心してしまった。
と同時に、身近にもそれほど親しくない人と一緒にいても苦にならないという特技を持った人がいることを思い出した。
ひとりは私の親友。彼女は「自分の友人とその友人たち」というメンバーで、つまり自分が知っているのは一人だけで残りは全員知らない人、という状況でも平気で旅行に行く女性である。
「私の友達と仲のいい人たちが私と気が合わないってことはないでしょ?」
知らない人ばかりで楽しめるかな、気疲れするんじゃないかしら……なんてことはまったく考えないという。
そして私の夫もこういうタイプ。出張の多い人だが、夕食をホテルの部屋でひとりで食べることはほとんどないようだ。その日訪ねた取引先の会社の誰かしらと食べに行っているらしい。
友人の家に遊びに行くと、私と入れ違いでどこかに出かけて行ったり別の部屋に引っ込んだまま出てこなかったりするご主人がいるが、夫は客人歓迎の人だ。一緒にテーブルにつき、自分の友人でもあるかのように会話に参加する。
物怖じせず、行く先々で交友を広げていく。自分の手でそこを居心地のよい場所に変えていく。私は親友と夫のそういうところを尊敬している。順応性が高いというのはそれだけ人間が柔軟でタフということだもの。
私は「誰かといると疲れるから一人が一番」というふうに思ったことはない。けれども、私が「この人となら楽しく過ごせる」という確信のない相手を誘うことはない、つまり気心の知れた人としか遊ばないのはやはり「気を遣うのは疲れるから嫌」だからなのである。
社交的で人見知りをしない私の中にも、人付き合いにかける労力を惜しむ気持ちはしっかり存在していたのだ。
* * * * *
考えてみると、その「水入らず」を求める気持ちは年々強くなってきている気がする。
誰かと親しくなろうと思えば、最初は少々無理をしなくてはならない。共通の話題を探したり、興味がなくても相手の話ににこやかに相槌を打ったり、時折訪れる沈黙に耐えたり。そのプロセスなくして知り合い以上の間柄になることはできない。
……とわかっているのに、それを億劫に感じることがある。「がんばって」新しい友人をつくろうとするより、「がんばらなくて済む」すでに気心の知れている人といるほうを選んでしまうのだ。これでは友人の数が右肩下がりになるのも当然。
親しい人もそれほどでない人も一緒ににぎやかに遊ぶのが好きだった二十代前半くらいまではいまよりもずっとバイタリティがあったよなあと思い出す。話題を選んだり、丁寧語で話したり、遠慮をしたり。それしきのことで疲れたりしなかったし、なにより知り合いが増えるのがうれしかった。
それがいまやすっかり、「大人数より少人数のほうが落ちつくわ」「世界は広がらなくてもいいから気楽なほうがいいや」。これがどんどん進行したら、劇団ひとりさんのようになってしまうのかもしれない。
昔はどうということのなかった刺激をストレスに感じてしまうというのは、根気や忍耐力が衰えているということだろう。「面倒くさい」と思うことが増えたり欲を失ったりするのは、心の体力が低下している証拠である。
どうしてかしらん。精神が疲弊するほどなにかをがんばっている、ということはないんだけどな。