週末、一泊で温泉に行ってきた。
東京に転勤して現在の業務をつづけるか、大阪に残って部署を変わるかを迫られ、後者を選んだ友人が異動先でかなり苦労しているらしい。三、四日おきに届くメールから彼女がどんどんしおれていくのがわかる。これはちょっと飲みに行って話を聞くくらいでは間に合いそうにないなと思い、近場の温泉に誘ったのだ。
「始業より一時間半早く行っても昼休抜いても仕事が追いつかないって考えられる?」
神経痛に効果てき面という薬草風呂に浸かりながら、彼女が悲痛な顔で訴える。
終電が当たり前で精神的にも厳しい部署のため、これまで男性しか配属されていなかったのだが、彼女は前部署で社長賞を取った実力とがんばりを買われ、このたび初の女性社員となった。しかし、そのハードさは彼女の覚悟をはるかに超えていた。異動してひと月、業務の全貌が見えてくるにつれ、「自分は大変なところに来てしまった」と空恐ろしくなってきたのだという。
「私、自惚れって言われるかもしれんけど、はずかしくない仕事をしてきたって自負持ってるねん。だからなんとかやれるやろって自信もちょっとあってん。でも、まじで無理かもしれん……」
ふと見ると、目を潤ませているではないか。十五年以上の付き合いになるが、そんな切羽詰まった彼女を見るのは初めて。かなりアップアップしているのは伝わってきていたが、これほどまでとは思わなかった。
しかしながら、夕食を食べ終える頃には私は彼女に対して「やっぱりたくましいや」と感心していた。
聞いてもらってちょっと楽になったわ、という言葉通り、何時間もかけて不安や焦りを残らず吐き出したら、彼女がずいぶん浮上したのがわかったからだ。
これまでも失恋だなんだで彼女が落ち込むたび話を聞いてきたが、毎回そうだった。自分を苦しめているものをアウトプットすることで身軽になれるタイプなのである。
私はそうではない。誰かに相談するというのはものすごく苦手だ。
この人なら聞いてくれるだろうな、甘えてみようかな……とちらと思うこともあるけれど、いざとなると辛気くさい話よりべつの話をしたくなる。相手に心を許していないわけでも頼りにしていないわけでもない。話すのがしんどいからだ。
なにかを誰かに伝えようとすると、そのことと「対峙」しなくてはならない。抱えている問題を冷静に見つめなおし、言葉にする作業が必要になる。それは自分を解放するどころか、胸に詰まった石の重さを再認識させるだけのような気がするのだ。「洗いざらいしゃべったらなんかすっきりしちゃった」となるより、余計に憂鬱になりそうである。
話すことで救われるどころか、ストレスを増やしかねない。だったら胸にしまっておいたほうがかえって楽、ということになる。身近な人が自分みたいなタイプだと大層心配になり、「私にも話を聞くくらいはできるんだけどな……」と寂しく思うのに、まったく勝手なものである。
こんな私には、「日記書きでストレス発散」という感覚ももちろんない。
無関係の話題について書いていると気が紛れていい、という意味ならば理解できるのだが、鬱憤そのものについて書いて憂さを晴らすということはありえない。書くも話すもプロセスは同じ。文章にするために目を凝らしてそれを見つめていたら、なおのこと気が滅入ってしまう。
* * * * *
友人が口を開かなくなったらいよいよやばいと思わなくてはならないけれど、私はその反対で、自分ひとりで抱えていられるうちはまだだいじょうぶということなのだろう。人にはいろいろなタイプがある。
「ギブアップはいつでもできるんやし、やれるとこまでやってみるしかないよね。いまあかんかったときのこと考えてもしゃあないもんな、そやそや」
ひとりでぶつぶつ言っている友人を見て安心する。きっと彼女はトンネルを抜けられるだろう。
……さて。私のほうはどうしたものか。
どれだけ歩いても一向に光が見えてこないが、まさか出口が岩で塞がれているのではあるまいな。