週末、友人からひとりの男性を紹介された。
以前から彼女は兄のように慕っているというその人を私に会わせたいと言っており、私も彼女の話の中にしばしば登場する彼に一度会ってみたいと思っていた。男性が遠方に住んでいるためなかなか叶わなかったのであるが、日曜の夕方、彼が店長をしているレストランに食事に行ってきた。
友人が全幅の信頼を置いているその男性は私たちより六つ年上の、彼女の元同僚。数年前に彼が会社をやめて地元に帰ってからも付き合いは切れることなく、友人は彼が始めた店に年に数回顔を出しているのだ。
「Aさんは男とか女とか、そういうのを超えた存在やねん」
とつねづね言っている彼女。
これは異性の友人を持っている女性が、自分たちが愛だの恋だのといった感情の絡まない純粋な友人関係であることを説明するときにしばしば口にすることであるが、ふだん私はこういうのを聞くと、「でも男と女はいつどう転ぶかわからないからねえ……」と突っ込みを入れずにいられない。その“ありえない”相手とくっついた例をいくつも見てきたので、「現時点においてジャスト友達であるのは信じる。でもふたりが男と女である限り、この先のことまではわからないと思うけどな」と思ってしまうのである。
しかしながら、この友人の「Aさんとどうにかなるとかいうことはぜったいない」だけは言葉通り受け取ることができた。
なぜなら、彼はゲイだという話だったから。Aさんは男性と“事実婚”しているのだ。
私の「ゲイ」と呼ばれる人たちについての予備知識はほとんどゼロだ。中村うさぎさんのエッセイをふうんと相槌を打ちながら読む程度で(うさぎさんの夫はゲイである)、知り合いにはいないからもちろん会ったこともない。
だから、「同性の妻を持つ男性」のイメージがまるで浮かばない。が、友人によるとものすごくかっこよくて、会社にいた頃はかなり(女性から)もてていたという。
ゲイの人たちは言葉を交わさなくてもぱっと見ただけでぴぴっとくるものがあって相手がそうであると互いにわかる、という話を聞いたことがある。目を凝らしてみたら、私にもなんとなくわかるのだろうか。
そういったことをあれこれ考えながら、彼女についていった。
ドアを開けると、厨房の前にいた男性店員が私たちに気づいて近づいてきた。「何名様ですか?」と訊かれるのだと思っていたら、彼が友人に向かって「来るなら来るって言ってよお〜」と相好を崩すからびっくり。
「なに言ってんですか、今日行くってメール入れたじゃないですか」
「えっ、いつ?わたし読んでない。そんなの届いてたっけ」
えっ!
ということはこの人なの?あらやだ、本当にすてきじゃないの……。
それはとても不思議な光景だった。身長百八十センチくらい、贅肉ひとつないスポーツマンのような体をした、聞きしに勝る爽やかな男性である。四十歳と聞いていたが、どう見ても私たちと同じくらいだ。そんな風貌の男性の言葉遣いが実にたおやかなのである。
一人称は「わたし」。他人と話すときにそれを使う男性はときどきいるが、そういうのとは違う。仕草も含めて、雰囲気全体が非常に優しげ。女性に近いものがあるのだ。
「あれ、今日は奥さんは?」
友人が訊く。彼の“妻”も同じ店で働いているのだ。
「それが出かけちゃってて。いたらぜったい喜んだのに」
そのやりとりを聞きながら、素朴な疑問が湧く。
Aさんは「夫」である。それなのに、どうして物腰が女性的なのかしら?
帰りに友人に訊いてみたが、彼女もわからないと言う。自分はゲイだと彼から教えられたとき、ふだんの様子から「女性のほうなのね」と信じて疑わなかったそうだ。
私はゲイのカップルというのは「女性」にあたる男性だけが女らしくなるのであって、「男性」側は変わらないものと思っていたので、かなり意外だった。もっとも他を知らないので、それがゲイの男性全般に見られる傾向なのかどうかはわからない。
しかし、友人はAさんが「男性」ではないからこれほど安心できるのだと思う、と言った。
* * * * *
Aさんは遠くからやってきた私たちのために他のお客へのサービスは店員にまかせ、厨房前の常連さんのための席で四時間も相手をしてくれた。
初対面の私にもゲイであることを隠さない彼から目からうろこが落ちる話をたくさん聞いたのだけれど、それは次回。