『週刊新潮』に掲載している渡辺淳一さんのエッセイに、定年直後に妻から三行半を突きつけられ、離婚した知人の話があった。
本人が多くを語らないため真相はわからないが、渡辺さんが知る限り、浮気をしたとか酒癖が悪かったといったことはなく、仕事一筋できた真面目な男性である。その彼がこうつぶやいた。
「あなたと同じ空気を吸いたくないの、と言われてね……」
そしてまたぽつり。
「そんなことを言われてもねぇ……」
それを聞いた渡辺さん、この「同じ空気を吸いたくない」は女性ならではのセリフであると思ったという。
男は女性に対してそんな言い方をすることはない。だって、男はいくら嫌いな女性とでも空気くらいは一緒に吸えるから、と。
* * * * *
渡辺さんの「女性は潔癖感が強く、嫌いになった男はきっぱりと、救いがないくらい突き放す」に私は思わず頷いた。
他のことについてはわからないが、男女のことに関しては男性より女性のほうがずっとシビアでドライである、という実感が私にもある。恋愛している最中に情が深いのは女性のほうだが、気持ちが離れるとびっくりするくらい“他人”になれるのも女性である。
時々会って食事をする元同僚がいる。年は私よりひと回り上であるが、気さくで楽しい女性なのだ。しかし、話題が彼女の家庭のことになると私は少し気が重くなる。
彼女の話には夫がほとんど登場しない。「こないだ家族で旅行行ってきてん」の「家族」は自分と長男、長女の三人を指す。夫は仕事だったのかと思ったら、「家におったんちゃう?さあ、知らん」。
たまに夫について語るときは、聞いているのがつらくなるほど愛情のない言葉が並ぶ。
彼女は夫と同じテーブルでごはんを食べるのがとにかく嫌なのだという。夫は毎晩八時には帰宅するが、夕飯は待たない。休日に子どもと出かけるときは家に残る夫の食事は用意しない。
夫は家にいる時間の大半を、彼女の言葉を借りれば「引きこもりのように」自室で過ごす。夫婦の会話はほとんどないそうだ。
そういう状態に至るまでに何があったのか知らないのでどちらの味方になるつもりもないけれど、しかし私が話を聞きながらつい「気の毒だな」と思ってしまうのは彼女の夫に対してである。
彼女が子どもとタッグを組んでいたら、彼は家の中に居場所がないのではないだろうか……。
以前、夫とケンカした私はストライキを起こして夕飯を作らなかったことがある。ふてくされてさっさと寝てしまったわけだが、翌朝テーブルの上に冷たくなったカップラーメンと割り箸を見つけたとき、かわいそうなことをしたと思った。妻に無視をされたとたん、わが家であっても夫にとっては勝手のわからない居心地の悪い場所になってしまうのだ。
新聞の人生相談欄やweb日記を読んでいると気づくのは、「概して男性は奥さんのことをそうひどく言わない」ということ。彼女に対する不満を述べてあっても、あからさまな悪口が書かれてあるのはほとんど見たことがない。
それに比べ、女性の夫に対する言葉はかなり辛辣だ。「顔を見るだけで不快なのよ」が伝わってくる文章もしばしば見かける。
「生理的にだめ」という情け容赦ない言葉を女性はふつうに使うが、男性が口にするのは聞いたことがない。何かを拒絶したり誰かを憎んだりする心は男性より女性のほうがはるかに強く、深いと感じる。
冒頭のエッセイに戻る。
そのうちあいつも淋しくなって戻ってくるかもしれない、とつぶやく知人に渡辺さんは心の中で言う。
「それはない。女は去っていったら、もう終わり。戻ってくることなんかありえないよ」
私もそう思う。リアリストである女性がいったん愛想を尽かした相手の元に戻るようなことはない気がする。
女性と男性、精神的にタフなのはどちらかと訊かれたら、私は迷わず「女性」と答える。ひとつの恋を終えたとき、立ち直りが早いのも未練を残さないのも女性である。別れた相手がいつまでも自分のことを忘れないでいてくれる……なんて甘いことも考えない。
付き合っていた男性と数年ぶりに話したとき、「実は君がいまもひとりでいてくれることを期待していた」と言われたことがある。自分から振っておいて、しかも自分は結婚しているのに、どうしてそんなことを望むのか。
「彼女は俺を忘れない」という思いがあったからだと想像する。これは彼が特別自惚れ屋だったからというわけではなく、男性が抱きがちな幻想なのではないだろうか。
思い出を美化するのは女も男も同じであるが、男性の話を聞いたり書いたものを読んだりしていると、女性よりずっとロマンティストであるなあと思う。その“甘さ”が可愛いところなのだけれど。
女性と男性とでは「耐性」が違う。
よくしなり、かなりの風雪にも耐えられる柳の木が女性。一見どっしりとして頑丈そうだが、柔軟性がないため案外ボキッと折れやすいのが男性。
もろくてナイーブなのは男性のほう、と私は感じている。