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2006年02月17日(金) 願いは、叶えよ

「いまの関係が壊れてしまうくらいなら、このままでいい。そりゃあ切ないよ、切ないけど、もし告白してうまいこといかんかったら……」
お茶を飲みながら、延々ループする友人の話を聞く。
彼女は目下、同僚の男性に片思い中。足掛け二年になるというのに一向に進展がない……どころか、「帰りがけにエレベーターで一緒になりそうになって、緊張のあまり素通りしてトイレに入ってしまった」なんて中学生みたいなことを言っている。
「彼女おるんかなあ、やっぱりおるよなあ、おらんわけないよなあ」
「え、それもチェックしてないのっ?」
「そんな立ち入ったこと聞かれへんやん。それにおったらショックやし」
「あのねえ……」
彼女の話が客観的であるなら、そんな素敵な男の人に恋人がいないほうが不思議。でも、いたってめげることなんてないじゃないか、奥さんじゃないんだから遠慮しなきゃならないわけでなし。選ぶのは彼なんだからさ。
「そりゃそうかもしれんけど……」
ともごもご言う彼女は、これまで一度も自分から好きだと言ったことがないという。
そういえば大学時代もそうだった。自信がないだの時期尚早だのと言っているうちに、相手が彼女をつくったり卒業してしまったりしていたっけ。
そういうのは私はだめ。進歩もない、見込みもないという宙ぶらりん状態で長くいるのがとても苦手だ。わりと早い段階で「だめならだめでしかたがない。とにかく白か黒かはっきりさせたい」と思うほう。
だから誰かを好きになって三割可能性があったら、勝負する。そう決心するに至るまでには悩んだり葛藤したりもするけれど、最終的には「待ってたってチャンスは降ってこない。自力でなんとかするしかないのよ!」とこぶしを握りしめるのだ。
人生初の告白は中学二年のバレンタインデー。学校の帰りにバレーボール部の男の子の家にチョコレートを届けに行ったのだ。
恐る恐るチャイムを鳴らすと、ハーイと優しそうなお母さんが出てきた。「○○君はいますか」とかなんとか、私は言ったのだろう。そのときのお母さんの「あら、まあ」という表情をよく覚えている。
そして、玄関に駆けつけた彼の弟に「にいちゃん、にいちゃーん、女の子来てるでえー」と近所中に聞こえそうな声で叫ばれた恥ずかしさを思い出したら、たいていのことは怖くない気がする私である。
以来二十年、片思いの恋を成就させるための最大の努力は「気持ちを伝えること」だと思ってきた。
実際私には、もし自分から言っていなかったらそういうふうにはなっていなかっただろうと思われる男性が何人かいる。好意を寄せられていることを知って初めてその人の存在に気づく、意識するようになるというのはよくあることだ。同じタイミングで惹かれ合い、気がつけば互いにかえがえのない存在になっていた……なんて恋の始まりは、現実にはそうは転がっていない。

振り返れば、恋をしたときの情熱というか行動力というかにはわれながらあきれるほどのものがあった。
私が大学を選んだ経緯を話したら、たいていの人がひえーとのけぞる。好きだった人を追いかけたのだ。
相手はクラスの男の子や部活の先輩といった現実の知り合いではない。高校三年のときある視聴者参加番組を見ていて、それに出てきた男性にひと目惚れしたのだ。いや、天啓を感じたといったほうが近い。
「私、この人に会いに行かなきゃ……!」
わかっているのは名前ととある大学の学生であるということだけ。私はすぐさま手紙を書き、住所がわからなかったので大学の学部事務室宛に送った。そして彼と正攻法で出会うため、推薦で決まっていた地元の大学を蹴り、親の反対を押し切ってその大学に入ったのだ。
いろいろと計算外のことがあり、“再会”を果たすまでに二年かかった。感無量で言葉が出ない私に彼は言った。
「気づいてるか?いまこの瞬間があるんはラッキーやったからやない、おまえがつくりだしたんやで。ここまでよう会いに来てくれた」
それを聞いて、私は初めて気づいたのだ。自分の願いを叶えられるのは自分だけなのだ、というものすごく当たり前のことに。
すべての出会いに「理由」がある。願いは叶うものではなく、叶えるもの------それを知るために、私は彼に出会ったのだと思っている。

そんな私だから、友人の話を聞いていると歯がゆくてしかたがない。厳しいことのひとつふたつ言ってしまう。
「そうやってぐずぐずしてるうちに、転勤でどっか行ったり結婚したりしちゃうんじゃない?」
「私の経験では、やっての後悔よりやらずの後悔のほうが確実に大きいよ」
それでも彼女がアクションを起こすことはむずかしいようだ。
私のように好きになったら言わずにおれないというのと同じに、待っても無駄だとわかっていても自分からは言えないというのもいかんともしがたいその人の性格なんだよなあ。