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2006年01月13日(金) 体罰について(後編)

※ 前編はこちら

「体罰」がごく身近なものだった私の小・中学校時代。
おかげで学校生活は思い出したくもないものになってしまっただろうか。いま私は「当時の先生になんて二度と会いたくない」と思っているだろうか。

そんなことはない。まったくない。
あの頃、先生が私たちに行った教育行為のすべてを肯定するわけではない。給食を残らず食べるまで食器を片付けさせなかったり、テストの答案用紙を点数の高い者順に返したりといったことは一部の子どもたちを無用に傷つけた可能性がある。私自身、与えられた罰に対し、罪との不均衡を感じたこともないではない。先生も人間だから指導や罰し方を誤ったこともあったかもしれない。
しかしそれはそれとして、すっかり大人になったいま思うのは「生徒とはいえ他人の子を見放すことなく、よくあれだけ叱ってくれたものだ」ということだ。

私は教育現場における体罰を許されないものだとは考えていない。肉体的苦痛を伴うという理由だけで、体罰が他の罰よりも子どもにとってつらい、残酷、危険なものであるとは思わないから。
……と言ったら、「体罰は子どもの心を傷つける」とか「体罰では子どもは改心しない」といった声が聞こえてきそうだ。でもそうだろうか。
たとえば反省文を書かされたり、居残りをさせられたり、掃除当番を増やされたりといった体罰でない罰であっても子どもが理不尽に感じ、心に傷を残す可能性はある。叱責や説諭であれば彼を必ず反省に導けるというわけでもない。子どもが先生や学校を嫌いになったり、かえって反抗心を募らせる結果になったりするリスクはどんな種類の罰にも同じように存在するのだ。
「おまえはクラス一のバカだ」「明日から学校に来なくていい」といった言葉でも子どもは心に深い痛手を負うだろう。体罰だから、傷ついたり反省する気になれなかったりするわけではない。
許されないのは、暴言や度を過ぎた指導を含めた「すべての不適切な懲戒」なのである。

体罰は他の罰よりも重い、きついというのはイメージに過ぎない、と私は思う。一時的に肉体に与えられる痛みより、たとえば何かの権利をとりあげられることのほうが子どもにとっては重罰と感じられる場合もあるのではないか。
給食の時間に数人の男子児童が配膳係の女子児童を「おまえが盛ったものなんか食べられない」と言っていじめた。担任は「食べられないなら食べなくてよい」と彼らを叱りつけ、教室の外に出した。これは横浜市の小学校で起こり、子どもの人権を侵害したとして担任教師が非難される形で新聞に載った話であるが、男子児童たちには正座やゲンコツより「給食抜き」のほうが堪えたのではないかと想像する。
私が「子どもにとって体罰がもっとも厳しい罰で、その他の罰が温情的であるとは限らない」と考える根拠のひとつだ。

たしかに、高校生にもなると体罰によって何かをわからせよう、改心させようとしても難しいかもしれない。しかし、中学生くらいまでならそれが効果を発揮する場面は少なくないのではないか。
いまでもはっきり覚えている光景がある。図工の時間に男の子が後ろの壁に向かって彫刻刀でダーツの真似事をしたとき、飛んできた先生は彼の手を強く打った。
彼はちょっとふざけていただけで、誰かを傷つけるつもりなどもちろんなかった。だから他の子どもも笑って見ていた。しかし、パシッという大きな音で彼だけでなくクラス全員がはっとしたのだ。
四年生だったから、話して聞かされれば理解することはできただろう。しかし、それがどんなに危険な行為であるかを思い知らせ、二度と同じことをさせないためには、ただ叱責したり彫刻刀の扱い方をあらためて説明したりするだけより有効だったのは間違いない。

さらに学年が下がると、無邪気に危険なことをしたり悪気なく嘘をついたり誰かをいじめたりした子どもにどんなに「だめ」の理由を説いても、幼いゆえに心から納得させることができない場合もあるだろう。そういうときは「とにかくやっちゃいけないんだ!」と強い態度で示す必要がある。
「体罰ではなく話し合いで」がいつも通用する、どんなときにも最善の策である、とはやはり言えないのではないだろうか。


「愛の鞭といっても所詮は暴力なのだ」と言う人はいるだろう。「だから法律(学校教育法第11条)で禁じられているんじゃないか」と。
しかし、もし体罰イコール暴力であるなら、教員による体罰だけでなく親による体罰も禁止されているはずだ。民法第822条はそれを禁じていない。
盆栽を割ったことをごまかそうとしたカツオが波平に頭をゴツンとやられ、わーんと泣く。このシーンを見て、「暴力だ、虐待だ」と思うだろうか。

一生家族としか関わりを持たずに暮らしていくのであれば、しつけは家庭内でのみ行われればよい。しかし、すべての子どもは近い将来、社会に出て行くのである。彼らが起きている時間の半分以上を過ごす学校に求めるべきものが「勉強を教えること」だけであるはずがない。
社会の常識、ルール、他者へのいたわりといったものを身につけさせようとする中で、先生が親に代わって体罰を与えざるをえない場面が出てくるのはごく自然な成り行きではないだろうか。

当時を思い出し、「遅刻や忘れ物くらいでどうして正座をさせられたり叩かれたりしなくちゃならなかったんだろう?」というふうには私は思わない。「ちゃんとやっておかないと将来困るのはおまえらだぞ」なんて口で言われるだけでは何の効き目もなかっただろうから。
たとえば時間を守ること、与えられた宿題をすること、授業がつまらなくても一時間おとなしく座っていること、日直や掃除当番をさぼらないこと、立場をわきまえた言葉を遣うこと。そうした一見瑣末な事柄を通じて、子どもは我慢や根気、責任感、協調性といった社会生活を営む上で必要な能力を養っていく。
授業に遅れたり学校をズル休みしたりが卒業するまで平気だった生徒は、会社に行くようになっても同じなのではないだろうか。あの頃、「だるい」「面倒」「まあええやん」でやらずに済ませたことが大人になったら自然にできるようになっていた……ということはたぶんないんじゃないか。