2005年12月23日(金) |
どんな恋も、いずれは。 |
大学生の頃、友人カップルに憧れていた。
互いにバイトやサークル活動に忙しく、始終べったりということはなかったが、一緒にいる時間が多いとか少ないとか、そんなことは問題にしないふたりだった。彼らを見ていると、ふつうの人がもっとずっと後になってからようやく見つける“伴侶”というものに早々と出会った……そんなふうに思えた。
でも、そうではなかった。ふたりは九年付き合った後、二十七のときに別れた。彼女が別の人に心移りしたから。
彼は二年待ったが彼女は戻らず、その半年後、職場の女性と結婚した。
「で、あなたはどうなの。幸せにやってるの」
「まあね。結婚はまだ先になりそうだけど。彼のとこは子どもが生まれたみたいね」
彼女がとりたてて感慨もなさそうに答えるのを聞いたとき、私はなんだか裏切られたような気分になった。
なあんだ、彼らもそこいらのカップルと同じだったんじゃないか。あはは、私ってば大きな勘違いをしていたよ!と。
信頼し合って尊重し合って、本当に素敵なカップルだった。あの頃、彼が彼女以外の女性と一緒になるなんて、彼女が彼以外の男性と一緒になるなんて、私にはまったくイメージできなかった。だけど実際はペアが変わったところでどちらの人生にもなんら支障は起きず、うまく回っている。互いがかけがえのない相手であるなどというのは、私のひとりよがりな幻想だったのだ。
たぶん私は、彼らは特別なカップルなんだと思うことで「終わりのこない恋がある」という夢を見ていたかったのだろう。そういうものがこの世に存在すれば、いつか自分も、という希望を持つことができるから……。
長いこと「ふたりは他のカップルとは違う」と思い込んでいためでたい自分を、バッカみたい!と笑ってやりたくなった。
そして、泣きたくなった。
* * * * *
恋には寿命があると思うようになったのはそれからだ。長い短いの差はあれど、どんな激しい恋にもどんな澄んだ恋にも、終わりはいずれやってくる。
だから、私は誰が別れたのなんのと聞いても「信じられない!」なんてもう思わない。仲睦まじいカップルの姿にものろけ話にも、「そうは言っても先のことはわからないんだよ」と皮肉なことを考える。
わが身を振り返ってもそうだもの。いつもはじまりから数年内に、まるで計ったように終わりがやってきたではないか。
演歌でもポップスでも大半の歌のテーマが「恋」。永遠不滅の恋というものが存在しないからこそ、人は老いも若きもそれに憧れ、これだけ歌われるのだ。
休憩室のテレビを見ながら、同僚が内田有紀さんと吉岡秀隆さんの離婚について、びっくりした、びっくりした、と繰り返すが、なにをそう驚くことがあるだろう?
派手に交際宣言をしたり挙式したりした芸能人が半年後、一年後に別れたなんて話、これまでにも数え切れないくらいあったじゃないか。このふたりはそうはならないと思わせてくれるような特別な理由などべつになかったろうに。
「どんな恋も遅かれ早かれ終わるのだ」を証明する事例がまたひとつ増えただけのことだ。
出会った場所で幸せいっぱいの式を挙げたふたりがたった三年でこうなる。恋心というものがいかに生命力の弱い代物か、「この恋は特別」がいかにあてにならないかをあらためて思い知る。
「矢田&押尾 手をつないでハワイへ!」という見出しにも、こういう時期もあるんだよな、という感想しか持たない。
三十余年生きてきて、終わらない恋なんて私は手に取ったこともなければ見たことも聞いたこともない。まだ終わりがきていない恋、なら巷にあふれているけれど。
……なあんて。この時期にはふさわしくない話でしたね。スミマセン。
恋をしている人もしていない人も、二〇〇五年のクリスマスをどうぞ楽しくお過ごしください。