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2005年12月02日(金) 人間はどこまで望むことができるのだろうか

先日、実家に帰省したときのこと。
母とテレビを見ていたら、討論番組に衆議院議員の河野太郎氏が出ていた。そのとき顔色がとても悪く見えたため、「体、どっか悪いんと違うか。土気色してるやん」と言ったところ、「ほんまやねえ。あの手術の後遺症なんやろか……」と母。

あの手術とは、三年半前、生体ドナーとなって肝硬変を患った父の河野洋平氏に肝臓の三分の一を提供した手術のことである。その後、洋平氏がすっかり良くなったことは現在衆議院議長を務めていることからも窺い知ることができるが、息子のほうはどうなのだろう。
肝臓は再生機能が高い臓器で、切り取ってもじきに大きさも機能も元に戻る、だから生体移植が可能なのだと聞いたことがある。しかしいくら回復するといっても、健康な人のおなかを切り開いて臓器を取り出すことが体にとって負担のないことであるはずがない。
もっとも、手術以前の太郎氏の顔色を知らないので、もしかしたら「俺はもともとこんな色なんだよ!」と怒られてしまうかもしれないけれど。

そんなことを考えていたら、母が言った。
「もしこの先、私がそういう病気になっても、移植とかそんなことはしていらんからね」
「なによ、突然」
「こういうことは元気なうちに言うとかんと。子どもの体を傷つけてまで生きたいとは思わんから。あ、それから延命治療もやめてね」

こういう会話はどうも苦手だ。いつまでも目を背けてはいられないことはわかっているが、まだ考えたくないというのが正直なところ。
わかった、わかったと答えながら思い出したのは、洋平氏が当初、臓器提供の申し出を拒んでいたという話。「せがれの体を切り刻んでまで生き延びたくはない」と突っぱねる父親を、「俺がやると言ってるんだから、気持ちよくもらえよ」と太郎氏が説得したのだそうだ。
十八日付けの読売新聞の投書欄に、大学生の息子から「サインしてほしい」とドナーカードを差し出されたという五十代の主婦の文章が載っていた。
予期せぬことに驚き、どうしたらよいかと悩んだ。まだ結論は出せていないが、それが息子の意思ならば尊重するしかない、という内容だったのだが、「提供した後、私の元へはどのような姿で戻って来るのだろうか……」という一文には胸を突かれた。
脳死状態にあり、なおかつ本人がそれを希望しているとわかっていてさえ、親は子どもの体が傷つけられることに耐えがたいものを感じるのである。生きている子どもから、ましてや自分のために内臓を取り出そうとは考えられないことであるに違いない。
太郎氏だけでなく洋平氏にとっても、大変な勇気のいる決断だったと思う。


太郎氏は自身のサイトに掲載している「臓器移植法を改正すべし」というコラムの中で、二〇〇二年までに日本で行われた生体肝移植のドナー1853人のうち、胆汁漏出、高ビリルビン血症、小腸閉塞などの余病を発症したドナーが12%に達すること、健康な人間から肝臓を摘出する前に脳死ドナーからの移植という選択肢があるべきなのに、それを可能にする条件が非常に厳しいことから、現実には近親者からの生体移植が唯一の選択肢になってしまっていること(二〇〇三年に国内で行われた脳死下での肝移植は2件、生体肝移植は500件超)について言及している。

「一人の命を救うために、もう一人の人間の健康が失われても良いのでしょうか。人の命を救うためと言いながらも、健康な人間の腹をかっさばき、その肝臓をぶった切る生体肝移植がどんどんと増えていくことに、私は疑問を感じています」

というくだりを読みながら思う。
医学が進歩し、これまではあきらめるしかなかった命が救えるようになった。私も自分の身内が重い病気にかかったら、どんなことをしても助けたいと思う。その“どんなこと”の幅が広がるのはすばらしい、ありがたい。
……でも、そのこととは別に。
生体臓器移植というのが、生きている人間の健康、場合によっては命を犠牲にする可能性をはらんだ“治療”であることを思うとき、「人間はどこまで望んでもよいものなのだろうか」という問いかけが浮かぶ。
これは代理母出産のニュースを耳にするたび胸に浮かぶ思いでもある。

いまの時点では、私の中にそれらについて是非や賛否を論じられるほどの材料がない。しかし、いずれ書いてみたい。