先日新聞で、作家の黒井千次さんの「禁煙難民」と題されたエッセイを読んだ。
デパートで買い物中、一服したい気分になったが、各階にある喫茶店は禁煙マークの入ったところばかり。安息の場を求めてさまよい歩き、ようやく見つけたのは甘味処。「男がひとりでこういう店にいるのは傍目に滑稽ではないだろうか」とひるみつつあんみつを注文、やれやれとタバコに火をつけた、という話だった。
そうそう、まさに“難民”なんだよなあ!と相槌を打ったのは、つい最近私も同じ思いをしたからだ。
喫煙歴二十年という年季の入ったスモーカーである年上の友人と食事に行ったときのこと。食後のドリンクはサービスで半額で飲めるのだが、彼女は店を替えようと言う。そのレストランは店内禁煙だったため、我慢の限界にきていたらしい。
そこで店を出て、タバコを吸いながらお茶ができるところを探したのであるが、時間が遅かったこともあってなかなか見つからない。そうだ、たしかあそこが……と思い出した喫茶店に行ってみると、「十月から全席禁煙になりました」と言われてしまった。
彼女はコーヒーを飲みながらの一服をあきらめ、私にオーダーを頼むと表に出て行った。どこかで立ったまま吸うのだろう。
戻ってきた彼女が、「喫煙者は肩身が狭くって……」と苦笑して言った。
マンションを買ったばかりの友人を訪ねたら、部屋に通されるなり「うちは禁煙だから、タバコはベランダでお願いね」と言い渡されたらしい。ノンスモーカーの友人の、真新しい家のリビングで吸わせてもらおうなんてまったく思っていなかったが、先手を打つようなその言い方にはちょっぴりショックを受けたという。
「だって、その口ぶりが『タバコを吸われるのは迷惑なんです』ってありありと語ってるんやもん」
こういう話を聞くと、少しばかり同情してしまう。私もタバコは苦手だけれど、彼女は吸うときにはひと声かけてくれるし、必ず横を向いて息を吐く。それでも私のほうに煙が流れてくると、手で追い払おうとする。いつも気の毒になってしまうくらい、こちらに気を遣ってくれるのだ。
釘なんか刺さなくたって、断りもなく部屋の中で火をつけるような人でないことくらい想像できそうなものなのに。
喫煙者と行動を共にすると、街中から灰皿が撤去されていることにあらためて気づく。
喫煙可のカフェやレストランを見つけても、窓際の眺めのいい席に案内されることはない。これからの季節は寒さに凍えながらテラスで、ということもあるかもしれない。また、少し前まではホームの先端に喫煙スペースが設けられていたが、いまは多くの駅で終日禁煙のアナウンスが流れている。
残業でくたくたに疲れ果て、やっとのことでタクシーをつかまえたと思ったら、「禁煙車ですがよろしいですか」と運転手。彼女は思わず“迫害”という言葉を思い浮かべたそうだ。
昔付き合っていた人の中にチェーンスモーカーの男性がいた。
一後輩だった頃から、寿命を縮める吸い方だなあと思いながら見ていたくらいだから、彼女になったらハラハラどころではすまなくなった。ちょっとした運動で息切れしたりよく風邪をひいたりするのが、すべてそれのせいのように私には思えた。
タバコを吸っている人を見て、「あ、ニコチン中毒者だ!」なんて思うことはまずないが、彼が具合が悪くても吸うのをやめないのを見たときは、彼にとってそれは嗜好品というより依存物なのではないかと感じた。どんなにいい人でも、こういう人と結婚することはできない。
こういう世の中になって、彼はきっととても苦労しているだろう。少しは本数、減っているといいけれど……。
「この機会に禁煙に挑戦してみたら?ほら、成功率九十パーセントっていう禁煙本が評判になってるやん」
「ああ、『禁煙セラピー』やろ。それ、読んだ」
「えっ、そうなん。ってことは効果なかったんか」
「ううん、これ以上読んだらほんまにタバコやめてしまいそうって怖くなって、途中で読むのやめてん」
世の喫煙者すべてが「やめられるもんならやめたいよ」と思っているわけではない、というのは発見だった。
それにしても、彼女のようなヘビースモーカーをして「これ以上読んだらやばい」と言わしめる内容とはいったいどんなものなのか。
「タバコを吸い続けたら、将来こんな恐ろしい病気になりますよ」というようなことが書いてあるのかと思ったら、そうではないという。ふうむ……。