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2005年10月03日(月) 書いてあることを、書いてある通りに。(後編)

※ 前編はこちら

一字一句違わぬ文章を読んでいるのに、人によってどうしてこれほど解釈が違ってくるのか。その謎を解こうとして、思い出した言葉がある。

「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない」

ご存知、養老孟司さんの『バカの壁』の中の一節だ。
私たちが何かを理解しようとするときに最終的に突き当たる壁、すなわち“理解の限界”は自分の脳である、という意味だ。そして、「本当はわかっていないのにわかっていると思い込む」「自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断し、耳を貸さない」という状態を、養老さんは“バカの壁”と呼んでいる。
人はその壁を知らず知らずのうちに自分の周囲にたくさん立てており、そのことに気づいていないがために、ある人たちと話が通じないとかうまく付き合えないといったことが起こる。強固な壁の中に住むと壁の向こう側、すなわち自分と立場や考えを異にする人たちのことが理解できなくなるからだ------というようなことが書いてある本なのであるが、Amazonのカスタマーレビューを見て、私は本当に驚いた。不快感をあらわにした過激なコメントのなんと多いことよ。

「『あんたにゃわからんだろう』と酒飲みオヤジに説教されている嫌悪感」
「『私が東大で〜』という記述が鼻についた」
といったものについては、へええ、そういう感想を持つ人もいるんだなあと思うことができるが、
「先生はとうとう惚けてしまったのだろうか。名前の通り養老院にでも入るのだろうか」
「一句捧げる。バカが書き バカが惚れ込む 『バカの壁』」
「この爺さん、ただの解剖学者の分際で何を思い上がってるんでしょうか」
なんていうのを読むと、あなたにそこまで言わせるのはなんなのですか?とまじめに尋ねたくなる。
「バカで何が悪い!」「赤の他人にバカ呼ばわりされる筋合いはない」といったコメントもいくつも見かけたけれど、いったいどこにそんなことが書いてあったのだろう。
養老さんはバカの壁を立てている人がバカだなんてひとことも言っていない。それどころか、「バカの壁は誰にでもある。それを自覚することが大切なのだ」と言っているのだ。それをどうしてそんなふうに読み違えるのか。それも、わざわざ自分が不愉快になる方向に。


推測するに、「思考停止」が起こっているからではないだろうか。
『バカの壁』というタイトルを目にした時点で、もう半分ケンカを売られたような気分になってしまったのではないか。つまり、表紙の「バカ」という単語を見ただけで、「この本には自分のことをバカだと言うようなことが書いてあるのではないか」と思い込んでしまった。
そういう予断を持って読むと、本当にそのように読めてしまうものだ。「バカの壁は誰にでもあるのだ」というこの本の大前提とも言える著者の言葉は、当然頭に残らない。
これぞ養老さんの言う“バカの壁”、自分が知りたくないこと(この場合は、予断の枠外にあること)については自主的に情報を遮断してしまうという現象ではないだろうか。
これは、酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』のレビューを読んだときにも感じたことである。
「勝ち負けがそんなに大事?どう生きるかやなにをもって幸せとするかは人それぞれ違うのです」
という内容のコメントをたくさん見かけたけれど、そんなことは著者だって百も承知。そのことは、エッセイが「人間を勝ち負けで二分することが本当は不可能であることは、私も知っているのです」で始まり、「ここまで負け犬という単語を連呼してみると、勝ちだの負けだのということが、ほとほとどうでもいいことのように思えてくるものです」で終わっていることからもわかりそうなものなのに。

「バカ」も「負け犬」もプラスイメージの言葉ではないから、タイトルを見て読まず嫌いを起こす人が出るのは無理もない。
しかし、ではタイトルを誤ったかというと、私はそうは思わない。
たしかに、もしそれが『脳の壁』なんていうタイトルだったら、レビューの中の著者の人格を傷つけるような言葉は十分の一にも二十分の一にもなっているだろう。しかし、あのタイトルだから興味を引かれて買ってしまった、そして「あら。私もバカの壁をいくつも立ててるわ」とはっとした……という私と同じような人は少なくないはずである。


「いずれにせよ、クレジットを見る人がいたり、クレジットを見ない人がいたりでいいんじゃないか。ヒトはヒトなんだから。僕は映画が終わってさっと席を立って出ていくときに、まわりの人に嫌な顔をしないでもらいたい、と望んでいるだけのことです。「見るのはおかしい」とか、「見ないのはおかしい」とか、そういうレベルの話じゃないですよね」
(『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』所収「二本立ての映画っていいですよね」の後日付記 新潮文庫)

書いてあることを、書いてある通りに、読む。
これは言うよりずっとむずかしい。思い当たるふしがあると、人はつい先読みや深読みをしてしまうから。私も(映画のクレジットと夫婦別姓を除く話題では)正しく読めていないことがあるに違いない。
しかし、もし著者に抗議の手紙を送ろうと考えることがあったなら、自分の憤懣が思い込みからきているものでないと------そこにある文章に勝手に何かを足したり引いたりした結果生まれたものでないと------思えるまで読み直してから、ペンを取ろうと思う。正確なインプットができていなければ、適切なアウトプットなどできるわけがない。

他人が書いたものを読めば、ひとつやふたつ自分とは違う点が見つかる。が、それを「否定された」と受け取って近視眼的な読み方をしてしまうと損をする。私たちは「自分の脳に入ることしか理解できない」のだから。
『バカの壁』のレビューに並ぶ「老人の愚痴」「時間の無駄」「金返せ」といったコメントを見ると、もったいないなあと思う。本当にそれだけの感想しか持ちようのない本というのは、この世にそうはないだろうに。