村上春樹さんのエッセイで、「ペンネームをつけておくんだった」と後悔することがときどきある、という話を読んだ。「村上春樹」は本名なのだそうだ。
あるとき顔にブツブツができたため皮膚科の病院に行ったら、そこは性病科と一緒になっているところだった。両方の患者がひとつの待合室で自分の番が来るのを待つわけだが、誰がどちらの科を受診するのかは見た目ではわからない。
開け放された診察室の奥からは「奥さん、これトリコモナスだよ。旦那がどっかでもらってきたんだよ。うち帰ってひとつ旦那をぶんなぐってやるといいよ」なんていう医者の声が聞こえてくる。そんな場所で異常に声の大きいナースに、
「ムラカミさあーん、ムラカミ・ハルキさああん!いないんですかー?ムラカミ・ハルキさああああああん!」
と呼ばれたときは本当に恥ずかしかったそうだ。
作家のエッセイには、世間に本名を知られていることの不具合に関する話がしばしば出てくる。
林真理子さんは結婚して苗字が変わったとき、これは非常に都合がよいことであると気がついたと書いている。店にクレームをつけたり通信販売でダイエット器具を買ったりしたいと思っても、これまでは名乗らねばならないことを考えてあきらめることが多かったが、「トウゴウマリコ」になってからは遠慮なく電話がかけられるようになったという。
そうだろうなあ。「ハヤシマリコ」の名で「オタクの社員教育はいったいどうなってるんですかッ」なんてやった日には、受話器を置いた瞬間から「ねーねー、ハヤシマリコってやっぱ性格悪いよー」と言い触らされるに違いない。
・・・いや、人のことは言えないか。私だってその病院の待合室に居合わせたなら、村上さんが診察室に消えるやいなや、「わー、こりゃひどいや。だめだよ、裸のオネエサンに近づくときはちゃんとコンドームしなくっちゃ!」なんて展開を期待して全身を耳にするに違いないし、その夜友人に電話でしゃべるときには村上さんは「性病科」に用があったことになっているだろう。
しかしながら、本名を知られていること以上に難儀なのではないかと思うのは、「面が割れていること」だ。
先日バスに乗っていたら偶然『エンジン』のロケ現場を通りがかったのであるが、沿道は若い女性であふれ返っていた。ちょうど収録が終わったところだったらしく、信号待ちで停車している間にキムタクがバンに乗り込み帰って行ったのであるが、その場の異様な興奮は窓越しにも伝わってきた。
香港のザ・ペニンシュラで浜崎あゆみさんを見たときもファンのテンションの高さに驚いた。リムジンに乗り込んだ浜崎さんに近づこうと道路に飛び出したファンのひとりが車にはねられた。が、彼女はむくっと起き上がると足をひきずりながらタクシーをつかまえ、後を追ったのである。
周囲の反応がこうでは、彼らが平凡な日常生活など送れるはずがない。『ダウンタウンDX』の「視聴者は見た!」に寄せられる芸能人の目撃情報にはいつも笑ってしまうが、目撃される側にしたらぎょっとさせられることも多いに違いない。
それでもまだ芸能人はファンにごはんを食べさせてもらっているという気持ちがあるから、しかたがないとあきらめられるかもしれない。私が心底同情するのはスポーツ選手だ。
少し前にフィギュアスケートの安藤美姫さんが「どこに行っても人に囲まれ、携帯電話を向けられる。街を普通に歩きたい、もう電車にも乗れない」と会見で話していたが、こういうのは本当に気の毒だなあと思う。
「自分が名や顔を知っている人の数」と「自分の名や顔を知っている人の数」が著しく違うという状況は、本来不自然なことである。
自分のことを一方的に知っている人間が多ければ多いほど、知られている側のストレスは大きなものになるのではないだろうか。
内館牧子さんが近所のスーパーで買い物をしていたら、見知らぬ女の子に「いつもドラマ見てます」と声を掛けられた。自分が毛玉のついたセーターを着ていることに気づいた内館さんは悩む。
「脚本を書いているのがこんなヨレヨレの格好をしたオバサンだと知って、彼女はがっかりしたんじゃないかしら・・・」
こういう話を読むと、どこで誰に見られているかわからないとか、いつ何時もイメージというものを気に掛けなくてはならないなんてどんなに窮屈でプレッシャーのかかることであろうと思う。
知り合いに「昨日ドコソコを歩いてたでしょ」と言われるのでさえドキッとし、「そのときに声掛けてよ!」と気色ばんでしまう私には到底耐えられないだろう。
ま、そんな心配は無用だけれど。