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2005年03月09日(水) サイトのやめどき

このところ、いくつかのサイトがぱたぱたと閉鎖している。
ネタが尽きた、情熱がなくなったという理由ではなく、ほかにしなくてはならないことができたため、日記書きに手をかけていられなくなったというもので、まさに「卒業」という感じ。どの書き手ともコンタクトを取ったことはなかったけれど、さよならのあいさつ文を読んでなんだかしんみりしてしまった。
もともとサイトへの思い入れが弱かったからあっさりやめられた、というわけではないと思う。いずれも人気のあるサイトだったし、ていねいに書いておられるなあという印象を受けていた。
だから、「春から忙しくなるのでサイト閉めます。いままでありがとう」とすぱっとやめた彼らを見て、すごいなあ、えらいなあと感心した。“そのとき”が来たら、私もそんなふうにスマートに去ることができるかしら。

・・・という話を日記書きの友人にしたところ、「へえ、小町さんも“やめどき”について考えることがあるのね。ちょっと意外」と言われた。
そんなことはない。日記書きが相当の時間とエネルギーを投入してはじめて維持できる“趣味”である以上、いつその日が訪れても不思議はない、と私はつねづね思っている。たとえば夫の担当地域が変わり、彼が毎日帰宅するようになったら、週三回の更新はこの半分になるだろう。
現在のスタイルがいつ崩れるとも知れぬ危ういバランスの上に成り立っているだけに、いますぐどうこうとは考えていないものの、「やめるとき」のことはわりとよくイメージするのだ。

「閉鎖の予告はなし。ある日突然、潔くいこう」
「最後の更新はもちろん長文になるだろうけど、未練がましいから前・後編に分けるのだけはよそう」
「個人的にあいさつメールを送る人のリストがいるな」
「でも、あの人とこの人とその人はメールじゃ済ませられない。絶対会ってお礼とさよならを言わなくっちゃ」
「そうだ、全テキストをプリントアウトして文集を作ろーっと!(ホッチキスで留めるだけだ)」

といったことを頭の中であれこれ考えるのはけっこう楽しい。
もっとも、そんなことを言っていられるのは“シミュレーション”だからであるが。


「いつまでもこんなふうに遊んでいていいのだろうか。いや、いいわけがない」

夜更かしして日記を書きながら、こう自問自答することは少なくない。それでも、じゃあどうしよう、こうしようというふうにならないのは、それを一度リセットすると何年もかけて積み上げてきたものが一瞬にして無になり、元の位置に戻ることは不可能であることを知っているからである。
それを承知で「えいやっ」とするのは、ものすごく勇気のいることなのだ。

書き手でなくなった瞬間、いまある読み手との関係のほとんどが消滅する。日記書きさんとのそれはこちらが先方の日記を読みつづけているうちは切れることはないかもしれないけれど、「書き手同士」というこれまでのスタンスとは違ってくるだろう。
これは思う以上に寂しいことではないかと想像する。

また、書くのをやめても読みのほうはつづけるだろうと思うので、「○○日記の××」という “名刺”を失うことによる不利益、不都合についても考える。
「定位置から文章を発信しつづけていること」は相手にある種の安心感を与えられることがある。マンションの隣人に回覧板を回すとき、インターフォンを押してただ「山田です」と言うのと、「二○六号室の山田です」と言うのとでは、ドアを開けるときの相手の警戒心の度合いは同じではないだろう。
誰かにはじめましてのメールを送るとき、「わたくし、こういう者ですが」と言えるものを持っていることで、その差分くらいの“得”はしてきたのではないかと思う。

サイトを手離すと、憧れの日記書きさんに会えるチャンスもなくなるというつまらなさもある。
多くのオフ会は実質、参加者は日記書き限定だ。「半年前まで『○○日記』をやってました」と言ったところで、「はあ、そうですか」ってなものである。
「私はまだあの人にもこの人にもお目にかかってない!」
そう思うと、ネタの泉が枯れるまでがんばらなくては、という気になる。
近々、日記書きの友人であるA子さんとB子さんを引き合わせる予定がある。黙っているとすごく美人なのに口を開いたとたんオッサンになるという共通点があり、私は以前から「彼女たちは絶対気が合うはず。いつか会わせたい」と思っていたのだ。
ふたりから楽しみにしているとメールが届き、なんだか恋のキューピッドになるような気分。こういう場も自分がサイトを持っているからこそ作ることができる。


いろいろと考えなくてはならないこともあるけれど、もう少し、もう少しだけ・・・。そう言いはじめてから、すでにかなりの時間が経過している。
が、この趣味は長くやればやるほど楽しみが増してくるのだから、困ったものだ。