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2004年11月15日(月) 批評する側に求められるもの(前編)

東京・四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」というフレンチレストランがある。
迎賓館のそばの閑静な住宅街にある、それはもう雰囲気のある一軒家レストランだ。行ったことがある人なら、まずあのすばらしいウェイティングバーを思い浮かべたのではないだろうか。
オーナーの三國清三さんは私の憧れのシェフのひとりで、仕事とプライベートで二度ずつ訪ねたことがある。東京駅や名古屋駅、大阪駅の駅ビルにも氏がプロデュースした店ができているので、「ミクニ」の名を聞いたことがある人は少なくないだろう。
さて、先日のこと。同僚との忘年会をどこでしようかとネットで探していたら、有名レストランを対象にした批評サイトを見つけた。いろいろな人がその料理やサービスを星の数で評価しているのであるが、その中に「オテル・ドゥ・ミクニ」についての掲示板もあったので、のぞいてみた。
「多角経営にはおいしさを求められないということなのでしょうか」
「これはフレンチではありません。本場の味をぜひ学んできていただきたい」
辛口のコメントが並んでいる。何人もが「決して味は悪くないのだが」と前置きしながら、「料理に感動がない」「どう味わってほしいのかが見えない」「多店舗展開をして落ちていった店が頭の中を流れていった」などと続けていた。
読みながら、私はへええと声をあげた。自分の感想と彼らのそれが違っていたからではない。好きなシェフの仕事を否定されたからでもない。世の中には自分の舌に自信のある人がこんなにいるのかと驚いたからだ。
他のレストランの批評も読んでみたが、「料理にリアリティがない」「素人料理に毛が生えたレベル」といったコメントがそこここにある。私はすごいなあ……とつぶやかずにはいられなかった。
もちろんこれは皮肉だ。私の中に素朴な疑問が浮かぶ。巷の評判には迎合しないぞ、という姿勢はけっこうだが、その前にこの人たちは超一流と言われているシェフの料理を“批評”する資質が自分にあるのかどうかについては考えたのだろうか。
味がどうの、コストパフォーマンスが高いの低いのといったことは感想であるから、その店で食べたことがあるという条件さえ満たしていれば誰にでも言うことができる。しかし、「料理に核がない」「一時代前の味」「ネームバリューほどレベルは高くない」というようなことは、シェフの“作品”を理解できるだけの力量、すなわち知識や経験や味覚を持たぬ人が言っても「わかったような口を利いて……」でしかない。
たとえば、だ。もし私が「村上龍?最近ろくなの書いてないね。日本で彼ほど過大評価されてる作家はいないと思うよ」と言ったら、人は私を嗤うだろう。君に小説の何たるかがわかるのか?と。
特別な舌を持っているわけでもない人が生半可なことを言うのは、これと同じくらい僭越なことであると私は思う。私は村上さんの文章が好きではない。『すべての男は消耗品である。』というエッセイもどうしても最後まで読むことができなかった。しかしその魅力が理解できないからといって、「彼の書くものはたいしたことないよ」と言ったりはしない。自分に作品の巧拙や文才の有無を判断することなどできないと知っているから。私にわかるのは、それが自分と相性の良い文章であるか、否かということだけである。
私たちの「おいしい、まずい」も同じこと。自分の口に合うか、合わないかでしかない。
あの店が好きだ、嫌いだはおおいにけっこう。しかし、一緒にいる人がシェフの腕がどうの、店のレベルがこうのとやりはじめたら、私は恥ずかしさのあまり逃げ出したくなる。 (後編につづく)

【あとがき】
おもしろくないなあと思っても、本を読むのを途中でやめてしまうことはないんです。「お金を出して買ったのにもったいない」という気持ちが働くから。でも、『すべての男は消耗品である。』だけはだめでした。……と以前日記に書いたら、「私もそうです」という方が何人かいらっしゃいました。