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2004年09月13日(月) 指輪コンプレックス

スポーツクラブのプールサイドの床に指輪を見つけた。ピンク色の石をあしらったハートのモチーフが指の上で揺れるデザイン。若い女の子が好みそうな、とても可愛いスウィングリングだ。
塩素にやられないようにと誰かが外したものが転がったのだろうか。それとも、顔でも洗っているときに抜け落ちたのか。あたりを見渡してみたが、“ナニワのおかん”風の女性がひとり、水中ウォーキングをしているだけである。もう少し泳ぐつもりだった私は拾いあげたそれを洗面台の上に置こうと手を伸ばした。
が、ふと思った。
「こんなに甘い指輪を自分では買わない」
私はそれをそっとタオルに包んだ。
指輪をフロントの女性に預けてクラブを出たあと、私は落とし主を想像してみた。小さな指輪だった。やっぱり、抱きしめたらぽきんと折れてしまいそうな感じの華奢な女の子なのかしらん。あのくらい指が細かったら、彼に「サイズは?」と訊かれてもすんなり答えられるだろうなあ。

男性は知っているのだろうか。世の中には指にコンプレックスを持つ女性が少なくないことを。
「愛の証の指輪はほしいけど、彼と一緒に買いに行くのは嫌」と言う女性は、私のまわりに驚くほど多い。
エクボのある赤ちゃんのようなぽっちゃりした手をした友人は、店頭で何の気なしに試着した指輪が抜けなくなってしまったとき、恋人にそれを知られたくないばかりに「これ、気に入っちゃった!」と大騒ぎして買ってもらったのだそうだ。
また別の友人は、指輪を買いに行くときにははめる予定の指にハンドクリームをたっぷりすり込んでおくのだと言った。もちろん指の滑りをよくするためである。
見栄を張ってワンサイズ下のものを選んだけれど、どうにもこうにも窮屈で、後日こっそりサイズ直しに出した……という話も聞いたことがある。
実を言うと、私にとっても指はちょっとしたウィークポイントだ。中学、高校と部活のトレーニングで日常的に指立て伏せをしていた私の指は男性にためらいなく「○号よ」と教えられるほどしなやかではない。
以前、職場に薬指のサイズが五号という女性がいたが、彼女の指輪は私にとってはピンキーリング。指輪は大好きなので、男性とジュエリーショップに行く機会は過去に何度かあったけれど、そのたび照れくさいというのとはまた別の恥ずかしさを感じたものだ。
「生まれたままの姿まで見せた相手なのよ。指のサイズを知られることくらい、どうってことないじゃない」
そうは思えど、そろそろ店員さんがサイズゲージを取り出してくるなと感じると、彼に「トイレ、あっちにあるよ」なんて言いたくなった。あまりに唐突なものだから、きょとんとした顔で「いや、べつに行きたくないし」と返されるのが常だったけれど……。
おそらくおおかたの男性はこんな女性の心の内を想像したこともないだろう。
林真理子さんはエッセイの中で、「男の人に指のサイズを知られるくらいなら、その場で薬指を噛み切って死んでしまいたい」と書いている。ティファニーやブルガリといった店の前で恋人から買ってあげるよと言われたときも、「私、なにも欲しくない、本当にいらないの!」と叫んだというから、あながち冗談でもないだろう。エンゲージリングも夫と一緒にではなく、ひとりで選んできたのだそうだ。
もちろんどこに出しても恥ずかしくない素敵な指の持ち主もたくさんいると思うけれど、「サイズは内緒」という女性も決してめずらしくない。これをお読みの男性の中にも、指輪をプレゼントしたいのになかなかサイズを聞き出せず、苦労した覚えがあるという方は少なくないのではないだろうか。

若かりし日の私も恋人をてこずらせる、そんな彼女のひとりだったわけだが、しかし一度だけ、おとなしく彼にサイズを“測らせた”ことがある。
私の二十二歳の誕生日の少し前。ふたりで講義を抜け出して、大学近くの喫茶店でお茶を飲んでいたときのこと。向かいに座っていた彼がおもむろに私の左手を取り、自分のほうに引き寄せた。人前でのスキンシップを嫌がる人なのにめずらしい、と目を丸くしていたら……。
彼はアイスコーヒーのストローの袋を私の薬指に巻きつけたのだった。

【あとがき】
彼の思惑はすぐにわかったけれど、私はうれしくて、ニコニコして測られていました。でも、私は指輪は自分に選ばせてほしいと思うほうなので、京都の高島屋に一緒に買いに行きましたよ。そのとき贈られた指輪を私はとてもとても大切にし、彼と別れた後も長い間、「いつか帰ってきて」の願いを込めて、細いチェーンに通してネックレスにして肌身離さず身につけていました。
ピンクサファイアにメレダイヤをあしらったその指輪は、私にとって代わりのきかない彼の存在そのものだったんです。