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2004年08月30日(月) 身も蓋もない話

俵万智さんのエッセイにこんな話があった。
コンビニのおつまみコーナーで、あるものが目に留まった。その瞬間、かつての恋人の記憶が鮮やかによみがえってきた。

 ほら、たとえばそこのおつまみコーナーに、ぶら下がっている「ジャイアントコーン」。Kが初めて私の部屋に来たとき、スナック菓子とか雑誌とかボールペンとかと一緒に、買ってきたものだ。
 別にスナック菓子やジャイアントコーンが食べたかったわけでも、雑誌が読みたかったわけでも、ましてボールペンが必要だったわけでも、ない。それらに混ぜて彼は、「?」のマークのついたベネトンの小さな四角い箱を、カゴに入れたというわけだ。

俵万智 『101個目のレモン』所収「コンビニの片隅で」


この三行だけでピンときた人がどのくらいいるかわからないが、「ベネトンの小さな四角い箱」とはコンドームのこと。
エッセイはこのあと、「自意識過剰ねえ。別にお客がなに買おうと店員さんは気にしてないって」と可笑しく思いながらも、俵さんが“手当たり次第”のひとつに過ぎなかったジャイアントコーンをすっかり気に入ってしまった……というふうにつづくのであるが、私はこのくだりを読んではっとした。ある事実に気づいたからだ。
自慢じゃないが、私は過去にお付き合いした男性の誕生日はもちろん、出会った日や初めてそういうことをした日まで覚えている“アニバ女”だ。
いちいち思い出して、「○年前の今日、私はオンナになったんだわ、ウフフ」なんてやることはないけれど、恋愛に関するかぎり記憶力は悪くないと言えると思う。にもかかわらず、私は覚えていないのである。その時々の恋人との“初めての日”にも必要としたはずのそれをどのようにして調達していたのかということを。
通販も含め、自分で購入したことは一度もない。そういう心配のいらないホテルで初めてを経験したこともない。いざとなって「あ、ない!じゃあ買いに行こう」となった記憶もない。よって、男性がひとり暮らしの私の部屋に持ち込んだのは間違いのないところだ。
しかしながら、私は彼らがそれを取り出したときの場景を----途中のドラッグストアで買ってきたものをカバンからだったのか、それとも財布や定期入れの中からだったのか、あるいは私が髪をとかしているあいだに枕の下に忍ばせておいたのか----私はどうしても思い出すことができないのである。
そのとき男性は照れ隠しのひとつも言ったのではないかと思うのだが、セリフのかけらさえよみがえってこない。これはいったいどうしたことだろう。
照れくささのあまり、私はその部分の記憶だけカットしてしまったのだろうか。はたまた、印象に残らぬほど彼らは手際よくスマートに切り抜けてくれたということなのか。
二度目以降であれば彼と散歩がてらコンビニに行き、アイスクリームやなんかと一緒にそれをカゴに入れることはできそうだ(ただし、カゴを持つのもレジで支払いをするのも彼、ということになるだろう)。夫婦ともなれば羞恥心や抵抗感はさらに減り、妻が夕食の買い物と一緒にスーパーで購入するのが当たり前、というふうになるのかもしれない。
しかし、どの男性との初めての日にも私はそれを用意することができなかった。必要になることがわかっていたにもかかわらず。
それは決して「恥ずかしかったから」だけではない。コンドームを自分で調達するというのは、ホテル代を割り勘にするのと同じくらい“身も蓋もないこと”であるように思ったからだ。
林真理子さんの小説、『不機嫌な果実』の中にこんな一文がある。

男はその時許されたと思っているが、実は十二時間前、朝、クローゼットから下着を選び出した時に、女たちは許しているのだ。


たしかにそうだ。
「今度の週末、部屋に行ってもいい?」
「うん」
この時点でセックスを思い浮かべていない女などいない。しかしそれでも、心のどこかで望んでいる。どんなに白々しくとも“そのとき”求められたから応えたの、というポーズを取らせてほしい、と。主導権は彼に預け、ベッドまでエスコートされたい、と。
だから朝食のサンドイッチの材料や彼の歯ブラシは買えても、コンドームだけは買えない。買いたくないのだ。

ここまで書いて、ふと思う。
女性が「待ってました」というふうに思われぬよう心を砕くのと同じに、男性もまた初めて彼女の部屋を訪ねるとき、「しに来ました」とは思われたくないと考えるものなのだろうか。
そうだとして、もし彼がなんの用意もしてこなかったとしたら……。
そのときは顔を見合わせてくすっと笑い、その夜は潔く“寸止め”の無念を味わおうではないか。「あのね、実は私……」なんてモゴモゴ言いながらタンスの引出しに手を伸ばすより、百倍甘美な気分になれる気がする。
本日は身も蓋もない話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

【あとがき】
大学時代、年上の友人は常にコンドームを財布に入れていました。異端の目で見る私たちに、彼女は言ったものです。「いつどこでそういう事態にならないともかぎらない。いざというとき、持ってなかったら困るから」。
当時、まだまだ純情だった私の辞書には「一夜の過ち」だの「恋のアバンチュール」だのといった語彙は載っていなかったんですね(いや、いまでも私はベースはとても純情です)。そのため「いざというとき」をレイプのことだと信じて疑わず、そんなことをする男に「これ、つけて!」と頼んだところでつけてくれるわけがないじゃない、無駄よ、と思っていたのでありました。後年私の勘違いだったことが判明、この一件はいまでも仲間内で笑いの種になっています。