電車がホームに到着するや、列の後方にいた老人が手にした杖で人を払うようにして扉の正面に立ち、降りてくる客を待つのももどかしく、真っ先に乗り込んだ。
女子高生たちは「なにあれ、ムカツク」とささやき、中年の女性はあっけにとられていた。私も思わず「そんなことしなくても、誰もあなたを差し置いて座りませんよ」とひとりごちたが、これも「人をアテにしても無駄。席は自力で勝ち取るもの」という学習の結果なのだろうかと思えば、少し神妙な気分になる。
しかし言い訳をするわけではないが、気持ちよく席を譲ることのなんとむずかしいことよ。
先日、仕事帰りにこんな光景を見た。途中駅から乗り込んできたおばあさんが、座って雑誌を読んでいたスーツ姿の若い男性の前に立った。彼はそれに気づいて席を立ったのであるが、どういうわけか、おばあさんは曖昧な笑みを浮かべたまま座ろうとしない。
といって、その男性の前から移動するわけでもない。周囲の視線が集まる中、彼は座り直すこともできず、困惑した表情で隣りの車両に移ってしまった。そのあともおばあさんは数駅先で降りるまで、まるで“蓋”をするかのようにその空席の前に立っていた。
一部始終を見ていた私は「そりゃあないよ」とつぶやいた。
「人の厚意を無駄にして……」ということではない。その必要がないのであれば、「すぐに降りますので」「健康のために座らないようにしてるんです」ときちんと断ってあげてほしかった。そうすれば、彼は再び腰を下ろすことができただろう。どうぞと声をかけるのは、けっこう勇気がいったはずだ。
席を譲ってあげたいと思っている人は決して少なくないと思う。しかし、私たちを尻込みさせるのはこういう反応ではないだろうか。
とはいうものの、大げさに喜ばれるのも勘弁してほしいのだ。
林真理子さんは、あるとき電車でおじいさんに席を譲ったら、「ありがとう!ありがとう!いまどきお嬢さんのような優しい人はめずらしいですよ!」と車両中に響き渡るような大声で叫ばれたという。「お嬢さん」の部分に乗客からしのび笑いが漏れ、人に親切にしてどうしてこんな恥ずかしい目に遭わされなくてはならないのかと憤っておられたけれど、気持ちはわかる。
私も以前、おばあさんに「最近の若い人は本当に席を代わってくれないのよ。シルバーシートにも大きな顔して座ってるしねえ」というようなことをとうとうと語られ、困ってしまったことがある。おばあさんは私を持ち上げるつもりだったのかもしれないが、周囲の人が聞き耳を立てているのがわかり、居たたまれなかった。
ふだんは目立つことが苦手ではない人でも、できるだけ注目を浴びたくないと思うのが電車で席を譲る場面ではないだろうか。当然だという顔をされるのは寂しいから、「まあ、どうも」と会釈をされるくらいが過不足なくちょうどよい。
というようなことを考えた数日後、新聞の投書欄でこんな文章を見つけた。投稿者は六十八歳の女性だ。
電車やバスで座っているとき、前にお年寄りが立たれたら席を譲るようにしています。ところが、近ごろは年配の方も若々しくおしゃれをしているため、自分もそこそこの年になった今、目の前の人が自分より年が上なのか、下なのかわからないときがあります。 もし年下だったら失礼になるし、「いくつぐらいだろう」とチラチラ見ながら座っていると、本当に落ち着きません。私自身、譲っていただいたときに「まだそんな年ではないのに」と思ったことがありますから。
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「そこそこの年」と書いてあったことにとても驚いた。そうか、六十八でも「まだそんな年ではないのに」と思うのか。「自分より年配の人には席を譲るべき」と思っているのか。
もしかして決して座ろうとしなかった件の女性も、「年寄り扱いして」という気持ちだったのだろうか。だとしたら、席を譲るって本当にむずかしい。
【あとがき】 高齢者に席を譲るより、妊婦さんや子ども連れの若い人に席を譲るほうが気が楽です。後者に断られたことはなく、素直に喜んでくれるから。まあ、ときどき「あの人は妊婦さんかな、それともふくよかなだけかな」と悩むこともあるけれど。 |