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2004年06月16日(水) 高嶺の花

先日、「大切な日記が明日もそこにあるとは限らない」という話を書いたところ、胸がきゅっとなるようなメールが届いた。
「当たり前にあると思ってたものが急になくなる感覚。サイトの世界ではとくにそれを感じます。自分では双方向だと信じていた、というか信じたかったけど、一方通行なんだなと感じました。それは切ない切ない瞬間でした」
読み手としてのキャリアは私もかなり長い。だから、この失望と寂しさは本当によくわかる。
事情があってのことなんだ、それにそんなの、初めからわかっていたことじゃないか……。そうつぶやきながら、書き手にとって自分たちが「手離すことのできる存在だった」ということにしっかり傷ついている。何度もコンタクトを取ったことがあり、親しく話せる間柄であると思っていた場合は、そのショックはさらに大きい。
彼、彼女にとって自分は大勢いる読者のひとりにすぎなかった、という事実。時折振り返って笑顔を見せてくれたのは、こちらが声をかけたからだったんだなあ。あれは“公”の顔。通じ合えたような気がしたのは、願望からくる錯覚だったんだ。
そういったことを読み手が思い知らされる場面のひとつが、突然の閉鎖だ。

読み手が書き手に憧れや敬意を抱くのはまれなことではないと思うが、それが高じて「別世界の人」のような存在に感じてしまうこともめずらしくなさそうだ。
ある男性日記書きさんは、初めましてのメールに返信すると決まって「返事が来るとは思ってませんでした」と驚かれるという。それは読み手が「返事などしそうにない人」とイメージしていたからではなく、人気のある書き手であるその人に「雲の上の人」的なものを感じていたからだろう。
冒頭のメールをくださった男性は、とても有名だったテキストサイトの書き手とメッセンジャーで話せたときのことを「信じられませんでしたよ。彼女は自分にとって芸能人みたいなものだったから」と言っておられた。
文章に惚れるという経験をしたことがない人は、「ずいぶんおおげさね。人気があるとか有名とか言ったって、所詮相手はシロウトじゃない」と笑うかもしれない。しかし、その天にも昇るような気持ちは私にはとてもよくわかる。
しかし、ここから悶々とする日々がはじまるのである。
「私(のメール)なんかが目に留まるわけがない」と思っていたら、思いがけない幸運に恵まれた。夢みたいとつぶやきながら、遠慮がちにお礼のメールを送る。するとまた返事が届く。うれしくてうれしくて、また感想を送る。返事が届く。やりとりを重ねるうちにプライベートな話やちょっとした軽口が出るようになり、私たちはいつしかこんなことを思いはじめる。
「もっと親しくなりたい。本音で話せるようになりたい」
しかし残念ながら、ほとんどの場合、それより先には進めない。読み手以上の存在であることを求められることはないからだ。どんなに真剣に望んでも、自分に光るもの----それはメールを送る頻度の高さでも文章のうまさでも熱意でもない----がなくては、懐の内にまで入ることはできない。「一読者」から「友人」になるのはとても、とてもむずかしいのだ。
「やっぱり手の届かない存在なんだなあ……」
自分がOne of themであることに納得し、その人を少し離れたところからまぶしく見つめているしかないというのは、本当に切ないものだ。

そして、読み手であると同時に書き手でもある私は、もうひとつ別の切なさも知っている。
「あの人はうちを読んでくれてはいないだろう」
この想像がおそらく外れていないことを思うとき、私はかなりシリアスに寂しくなる。

【あとがき】
高校生の頃、私はバレーボール部に所属していたのですが、練習試合で出会った二学年上の他校のキャプテンに憧れていたんですね。彼女が卒業する前に自分の存在をどうしても知ってほしくて、その学校の文化祭に出かけ、写真を一緒に撮ってもらいました。それは生徒手帳に入れて長いあいだ宝物にしていましたね。日記書きさんへ憧れも、自分にないものを持っていた彼女へのそれと同質のものでしょう。