過去ログ一覧前回次回


2004年06月02日(水) 私たちに人が裁けるか(前編)

朝刊の投書欄に四十代の男性が書いたこんな文章を見つけた。

このたび裁判員法が成立し、二〇〇九年までに裁判員制度がスタートすることが決まったが、制度に対する企業の関心は薄く、我々会社員の不安は募る。「裁判員休暇制度」導入を訴える声もあるが、まったく同感だ。
裁判員に選ばれ、休業を余儀なくされた社員が勤務先で不当な扱いや精神的苦痛を受けるのを防ぐために、国は雇い主や上司に対し、そうした措置を行わないよう働きかける責務がある。裁判員を国民の義務とするなら、我々が安心して裁判に参加できる環境を作ってもらいたい。


私はまるで張子の虎のように大きくうなづきながら、これを読んだ。まさに同じことを考えていたところだったのだ。
二十歳以上七十歳未満の国民から無作為に選ばれた「裁判員」が殺人などの重大な刑事事件を裁判官とともに審理し、有罪か無罪か、量刑について判決を下す----それが「裁判員制度」だ。
各公判の審理は裁判官三人、裁判員六人で行われる。アメリカの陪審制では被告の有罪、無罪を判定するのが陪審員、それを受けて量刑を決定するのが裁判官という役割分担があるが、日本の裁判員制度はそのどちらもを九人が多数決で決める。すなわち、評議・評決にあたっての両者の権限はまったく対等ということだ。
この制度の対象になりうる刑事事件は年間約二千八百件。よって、一生のうちで一度以上裁判員を務めることになるのは六十七人に一人という計算になる。この数字をどう見るかはそれぞれだろう。が、私にとっては「自分には関係ないや」と無関心でいられるほどには低い確率ではない。
五年以内に制度導入というニュースを聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは「出頭要請を受けて、ハイ、そうですかと応じられる人が世の中にどれだけいるだろう?」ということだ。
たとえば会社員。裁判員は国民の義務だから、「仕事が忙しい」という理由での辞退は認められない。しかし、三十八度の熱があっても這ってでも会社に行く彼らが「明日裁判なんで、休ませてもらいます」と上司に言えるものだろうか。言ったところで会社は快く送り出してくれるだろうか。
審理に必要な日数は公判によってまちまちだ。数日で済むこともあれば、長期に渡ることもある。その間、交通費と日当(額未定)は支給されるが、休業補償はない。アメリカでは企業が陪審員になった社員の給与補償を行っているというが、それは日本でも可能なのだろうか。
年間二万五千人が裁判員を務めることになる。取引先との商談を代理の者に頼んだら契約がまとまらなかった、稼ぎどきに留守にしたため自営の売り上げに響いた、といったケースが出てくることは想像に難くない。義務を先送りできる延期制度も検討する必要があるのではないだろうか。
国が「事業主は裁判員に選ばれた社員の休業による不利益な扱いを禁止する」についての現実に即した具体策を提示しないかぎり、裁判員に選ばれることは会社員にとって「招かれざる負担」にしかなり得ないのではないか。
会社側が「この忙しいときに傍迷惑な」という認識でいるかぎり、それを名誉ある権利として受け止めることはむずかしいだろう。

国会議員や自治体の長を選挙で選ぶのと同じように、司法の領域にも国民が参加してこそ真の民主主義国家と言える、という考え方がある。
また、裁判官が世間知らずだというのはよく言われることであるし(勉強に明け暮れる学生時代を送り、会社勤めの経験ももちろんない。“法の番人”として生きると決めてからは社交関係まで限定されるのだから、無理もない)、「週刊文春」の出版禁止処分をめぐって「業界や言論というものにあまりにも無知な裁判官による、ひとりよがりの判決」という怒りの声が噴出したことも記憶に新しい。
裁判員制度はこれまでお上任せにしてきた“社会の正義”を回復する役割を国民自らが担い、その価値観と常識を反映させることでより納得のいく裁判を実現させようというものだ。その理念は十分理解できる。
しかしながら、私はこの制度が意義のあるものになるかどうかについては懐疑的である。上に書いた「国民が裁判に参加しやすい環境整備ができるのか」うんぬんの話ではない。私はもっとずっと根本的なところで引っかかっている。
それは、あまりにも素朴な疑問。「はたして私たちに人を裁くことができるのだろうか」ということだ。 (後編につづく)

【あとがき】
私のまわりには裁判員制度についてほとんど知らない人が少なくありません。先日会った友人は「なにそれ、聞いたことない」と言っていたし(新聞をとっていないから当然か)、病気療養中とか介護、育児でどうしても家を空けられない人以外は辞退できないんだよと言ったら、「そんなことで仕事休めるわけないやん」と一言。そう、“そんなこと”という認識の人が現時点では大半なのではないかと思います。国はまず国民のその意識の啓蒙から……いや、その前に制度の周知徹底から始めなければならないでしょう。