2004年05月21日(金) |
「持っていてもらわないと困る」とあなたは言うけれど。 |
今朝の朝刊に五十代の女性が書いたこんな投書が載っていた。
息子と同年代の職場の若い男性ふたりが、「彼女からメールが来ない」「おまえが送り過ぎなんや。返事が来るまでとにかく待て」といった会話をしているのを微笑ましく聞いていたら、突然私にお鉢が回ってきた。 「昔はメールなんてないし、デートの約束はどうしてたんですか?」 三十年も昔のこと、公衆電話から寮にかけて呼び出してもらったり、待ち合わせ場所で待ちぼうけをくわされたり……。青春時代を思い出して心が温かくなった。 「送信即応答」に慣れたいまどきの若者にも、あの頃のようないじらしいときめきを体験してほしいと思う。
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思わず頷く。ああ、わかるなあ、「いじらしいときめき」って。
私が恋にもっともひたむきだったのは十数年前、大学生の頃のこと。ポケベルを持っている人がちらほらの時代であったから、彼の声が聞きたくなったら自宅に電話をかけるしかなかった。
いまの若い人はどうだか知らないが、当時は自室に個人専用の回線を引いている人なんていなかったから、家族の誰か、たいていは彼の母親に取り次いでもらわねばならなかった。
「こ、こんにちは、小町と申します。あの、タロウ君はいらっしゃいますか」
「はいはい、ちょっと待ってやー」
たったこれだけのことなのだが、やはり緊張するのだ。父親が無愛想にただ「はい」とだけ電話に出たときなど、「間違えましたあ!」と切ってしまいたくなったし、声がそっくりな彼の弟に嬉しげに話しかけ、恥をかいたこともある。彼が電話口に出てくれるまでの数十秒間を、私はいつも息をつめ、どきどきしながら待ったものだ。「もしもし」が耳に届いた瞬間の安堵はいまも覚えている。
それでも、自宅に電話をするのは苦ではなかった。
「タロウ!電話ー!小町ちゃんからやでー。ちょっとジロウ、お兄ちゃん寝とんちゃうか、起こしてきたって、はよう、はよう!」
耳を澄ましていると聞こえてくる受話器の向こうの声にクスッとやったことは一度や二度ではない。
このお母さんとはついにお目にかかることはなかったけれど、「よかったら使って」と彼経由でプレゼントしてくれたイヤリングは、実はいまでも取ってある。いかにも大阪人の、男の子ふたりの豪快な「おかん」という感じの人だったけれど、お元気でいるだろうか。
携帯になら深夜であろうが早朝であろうがかまわないだろうが、自宅へは二十二時を回るとかけることができない。寂しければ布団をかぶって寝てしまうしか法がなかった。
“門限”のある自宅への電話にはそんなせつなさ、もどかしさもあったけれど、私は決して嫌いではなかったし、あれはあれでよかったように思う。
このご時世にあって、私は携帯電話を持っていない。その肩身の狭さについては以前にも書いたことがあるが(「携帯持たず者の苦悩」参照)、周囲はやはりしきりに私に携帯を持て、持てと言う。週末に会う予定の友人など、私が持っていないことを「不便を通り越して迷惑だ」とまで言うのである。
「なんでやの、あなたが約束の時間に約束の場所に来てくれりゃ会えないわけがないのに」
「そりゃそうやけど、寝坊するかもしれんやん」
「持っていてもらわないと困る」とあなたは言う。けれど、携帯がなかった時代、私たちにとって待ち合わせはそんなにむずかしいことだった?
突発的ななにかが道中に起こる、なんてそうめったにあることではない。目覚ましをセットしてきちんと時間に起き、五分余裕を持って家を出たら、百回のうち九十八回は問題なく約束の場所にたどり着けるはず。
この十年のあいだにそれがなくては待ち合わせもおぼつかないほど人間が忙しくなったわけではない。あの頃誰もが当たり前に持っていた「遅れてはならない」という責任感と誠意が薄れてしまった、それだけのことではないのかな。
相手が携帯を持っていないのはたしかに便利なことではない。しかし、それは「不便」とはちがうのだ。
※参照過去ログ 2003年11月25日付 「携帯持たず者の苦悩」
【あとがき】 初めての人に会うときには困るじゃないかって?なに言ってんのよ〜、どきどきするのがまたいいんではないですか!とくに未知の男性と待ち合わせのときなんて。「あの人だったらいいのに」とか「あれだったらどうしよう……」とか思いめぐらせつつ互いの出方を探る、このスリル。 ……っていうのは無理があるかしら。でも、私は日記で知り合った方や紹介された会社に面接に行くときに派遣会社のコーディネーターさんと待ち合わせをすることがちょくちょくあるけど、出会えなかったことは一度もないですよ。目印を決めておいて、互いが約束を守れば大丈夫なものなのです。 |