ワールドカップバレーボールを見ている。
スポーツをビデオで見て面白いのかと言われそうだが、リアルタイムで見られないのだからしかたがない。いま行われているのは女子大会なのだが、毎回本当にいい戦いを見せてくれるのだ。
彼女たちがすばらしいプレーをすればするほど、私の胸は締めつけられる。おしゃれをしたい盛りに筋トレで体を鍛え、同年代の女の子がデートにいそしんでいるときにコートを転げ回って白球を追いかける。それは誰に強制されているわけでない、自身が選んだ道であるが、だからこそここに至るまでの日々に彼女たちがあきらめてきたもの、引き換えにしてきたものを思い、ぐっとくるのだ。
今回の全日本チームのメンバーには十九歳が二人、十七歳の現役高校生が一人いる。彼女たちを見ていると、その年の頃の自分を思い出す。
私も中学、高校の六年間はバレーボールに捧げた。思い出といえば部活のことしかないくらい、それ一色の生活。六時半に家を出て朝練をこなし、夜はボールが見えなくなるまでコートの上。口もきけぬほどヘトヘトになって帰り、まさにバタンキューの毎日。
週に一度体育館を使える日以外は屋外コートだったため、日焼けした手足はいつも傷だらけだった。炎天下に何キロも走ったり、腹筋や腕立て伏せを何セットもやったり、ミスをして顧問の先生に怒鳴られたり、ときにはビンタをされたり。それでもやめようと思ったことは一度もなかった。
よくあんなことをやっていたなあとつくづく思う。いまの私が義務でもないのにあの苦行に耐えられるかといったら、ぜったいに無理だ。社会に出てからというもの、意義や勝算や効率を顧みずになにかをすることができなくなった。顧問の「やれと言ったら黙ってやれ!」についていくことはもはや不可能である。
スポーツ選手を見ているとせつなくなるのは、自分が大人になってすっかり失ったあのひたむきさのようなものを思い出すからだ。
私は人生の最初の二十年近くを「単純」で「従順」でいられて、心からよかったと思っている。
少し前に「どうして子供は勉強しなくちゃいけないんですか?」「勉強しないとどうなるんですか?」という公文のCMがあったが、私はそんなことを考えたことがない。勉強はするもの、学校は行くもの。そのことに理由など求めなかった。だから、やらされているという感覚もなかった。
こんな私が尾崎豊の歌を理解することができないのは、むべなるかな。彼の歌ほど共感する者としない者とに分かれる歌はないのではと思うのだが、私は後者。その世界は私にはまるでピンとこなかった。歌詞には「自由」「夢」「真実」といった言葉がたくさん出てくるけれど、彼が求めてやまないそれらがどんなものであるのかさっぱりイメージできなかったのだ。
人は誰も縛られた かよわき子羊ならば 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか 俺達の怒り どこへ向かうべきなのか これからは 何が俺を縛りつけるだろう (卒業)
|
皮肉ではなく、私には本当にわからない。「誰にも縛られたくない」というけれど、それは苦しいこと、面倒なことから逃避したいというのとどこが違うのだろう。つまらないことを我慢したくないというのと、なにが違うのだろう。
「俺達の怒り」とはどんなものなのか、どこから来ているのか。彼はいくつもの歌の中で大人への不信を露わにしているが、どんな仕打ちをされたらこういう感情を抱くに至るのであろうか。
大人達は心を捨てろ捨てろと言うが 俺はいやなのさ 退屈な授業が俺達の全てならば なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な 15の夜− (15の夜)
|
気の進まないことイコール「強いられていること」とみなしてはいないか。「支配」だと捉えてはいないか。もしもそうなら、そりゃあこの世は苦しいことだらけの場所であろう。大人が敵のように感じられるのも不思議はない。
しかし、我慢も強制もない世界などどこにもありはしない。人は自発だけに頼って全うに生きていけるほど強くも賢くもない。
「自分の存在が何なのか」「何のために生きてるのか」なんて十五や十七でわかるはずがない。どうしてそう積極的に世を儚もうとする、なにを焦っている。不当にむやみに傷ついているのではないのか。
ついそんなことを言いたくなってしまうのだ。
曽野綾子さんがエッセイの中で「すべての教育は必ず強制から始まる。子どもは上から教えるものだ」と言っているが、私もそう思う。
人にはその時期その時期に与えられる「本分」というものがある。それは揺るぎないもので、理屈抜きで「すべきこと」である。たとえば子どもにとっての遊び、学生にとっての勉強。彼らがその身分であるかぎり、好きだ嫌いだでそれを「する」「しない」を選択してもよいとは思わない。
学生であった期間、私が余計なことを考えずに過ごせたのは主体性がなかっただけの話かもしれない。たとえそうだとしても、ラッキーだったことに変わりはない。
もし学校や勉強や練習にいちいち「なぜ」「なんのために」の答えを求めていたら、自らその日々を苦痛に満ちたものにしてしまっていたから。「そういうもの」とすんなり受け止められたから、私はあの日々を台無しにせずにすんだのだ。