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2003年08月21日(木) ぜいたくな旅

出発前、友人たちは異口同音に「北欧に避暑!優雅やねえ」と言ってくれ、私もそのつもりだったのであるが、フタを開けたら優雅とはかけ離れた旅になった。理由はいくつかある。
ひとつは、あまりにも物価が高かったこと。
北欧の旅はお金がかかるというのは噂には聞いていたが、これほどとは思わなかった。なにもかもが信じられないくらい高い。五百ミリリットルのペットボトルの水が四百円、ガソリン一リットルが百九十円するのである。
両替したばかりの二百クローネ札(約三千六百円)を握りしめ、郵便局に切手を買いに行ったところ。
夫  「おつりは?」
私  「ない」
夫  「ないわけないでしょう。いったい何百枚買ったの?」
私  「ううん、二十枚しか買えなかった」
最初に訪れたデンマークで、早くも「これはまずいぞ。このままいくと、帰国したらお粥生活になってしまう」と危機感を抱いた私。そこで食費を切り詰めようと考えたのであるが、お手上げだった。なんせ街角の売店のソーセージをはさんだだけのホットドッグが五百円するのだから。
北欧が私にとって食べ物自慢の国でなかったのが、せめてもの救いであった。
もうひとつ、私たちを苦労させたのは宿である。
ふだんからホテルの予約をせず、現地の空港や街のツーリストインフォメーションで探すことが多かったのだけれど、今回は観光のベストシーズンということで見事に空きなし。二都市でユースホステルに宿泊することになってしまった。
いや、ユース自体はまったくかまわない。けれど、旅行に来て夫婦別々で二晩も過ごす(男女別の六人部屋だった)ってのはどうなのかしら……とは思わなくもない。
まあ、二段ベッドの上段で天井にあたまを打ちつけたのもひさしぶりだったし(ぜったいやるとは思っていたが)、翌朝同室のアメリカ人やカナダ人の女の子たちと“Have a nice trip!”のあいさつで別れるというのも悪くなかったけれど。
私には生きているうちに、それもできるなら若いうちに訪れたい、見ておきたいと思っている国や場所がいくつかあるのだけれど、ノルウェーのフィヨルドもそのうちのひとつだった。デンマークのコペンハーゲンで自転車を乗り回した後、船でオスロ入り。そこからレンタカーでフィヨルドの旅に出かけることを私はどれだけ楽しみにしていただろう。
世界最長、最深のソグネフィヨルドを見るため、ノルウェー海に面したベルゲンの街までひた走る。その距離、実に六百キロ。運転できない、地図読めないの私は夫にとってただの重石のような存在だったにちがいない。じゃあせめて愉快な重石になろうと思ったのであるが、実際は助手席でお菓子を食べたり、大声で歌ったり、長いまばたきをしたり……となんの役にも立たなかった。
そんなわけで夫はとても大変だったと思うが、車での旅を選んだのは大正解だった。ノルウェーはイメージしていた通り、本当に森と湖(海というべきかもしれない)の国だった。オスロ-ベルゲンを往復する四日間、日本の、それも都会にしか住んだことのない私にはちょっと信じられないような風景に包まれた。
さきほど宿探しに苦労したと書いたが、実はここでの一晩はユースすら見つけられず、野宿をしている。車のシートを倒して横になったが、寒くて眠れない。フロントガラス越しに星空を眺めながら「こんなところまで来て、なんで外に寝ているのかしら」と首をかしげたけれど、朝日のまぶしさで目が覚め、眼前に広がる湖面がキラキラと輝いているのを見たとき、私はいまなんてすてきな体験をしているのだろうと思った。車から出てあたりを見渡す。「山に抱かれる」をからだで感じたのも初めてだった。
フィヨルド水を打ったような静けさの中、ソグネフィヨルドを船で進んだ。波ひとつない水面は周囲の岩肌や木々を鏡のように映し出している。遠くに氷河が見える。アザラシが水の中からちょこんと顔を出し、不思議そうにこちらを見ている。
両側にそそり立つ雪をかぶった岩山からは無数の滝が落ち、その水をコップにすくって飲んでみる。とても冷たくて、そして何の味もしない。ああ、水って本当はこういうものなんだと思った。アラスカで鮮やかな水色をした氷山を見たときと同じに、私はその神々しいとさえいえる景色に圧倒され、ただただ息をのんで見つめるのみだった。
この感動と驚きを言葉で再現することはとてもできない。けれどひとつだけ言うなら、胸に湧きあがってきたのは「ああ、自然にはかなわない」という思い。人間も本当はほかの動物と同じ、大地を“間借り”して生きている存在。なのに私たちはなにか勘違いしているなあ、と。

パンとハムを買ってきてサンドイッチを作って食べたり、車の中で眠ったり。優雅とはとても言えないものだったけれど、だけどこんなにぜいたくな旅をしたことはない気がする。
二〇〇三年八月十八日。すばらしい思い出を作って帰ってきました。

【あとがき】
北欧に食べ物は期待していませんでしたが、少々心残りだったのは「鯨肉」を食べられなかったことでしょうか。小学校のとき、給食に「鯨肉のノルウェー風」というメニューがあって、甘辛く煮たあの硬い肉がとても好きだったんですね。で、ノルウェー風と名がついているくらいだから、あちらではよく食べられているのだろう、ぜったい食べるぞ!と思ってたんですよね。でも、ベルゲンの魚市場で燻製を見かけた程度でした。あちらの人に尋ねたところ、いまはほとんど食べられていないということでした。そういえば『地球の歩き方』の食の欄にも鯨肉のメニュー置いている店の情報は一切載ってなかったな。燻製の試食はさせてもらったけれど、ちゃんと食べてみたかったので残念でした。懐かしいなあ、あの味。うーん、太地(和歌山県の鯨の町ね)にでも行くかな。