この時期になると、人はおのずとその年の有り様を振り返りたくなるものなのだろうか。朝刊の読者投稿欄はここ数日、終わりを告げた恋に思いを馳せる内容のものが続いている。
といっても、投稿者は若い女性ではない。いずれも立派な中年の域にある五十代の女性である。
とりわけ、「この三ヶ月間、夢を見ていたのかなあ?」で始まる五十二歳の女性のそれにはぐっとくるものがあった。
以前から好意を持っていた男性に親切にされ、あらぬ期待をしてしまった。が、それは彼の気まぐれであったことがわかり、「アホやなあ……」とつぶやきながら、なんとかあきらめの境地にたどりついたという彼女。
でも、幸せだった。私の人生にこんなことがまだ起きるなんて。この年で幻を見られるなんて。 愚かな自分を褒めてやりたい。思い出に変わるまでにはまだ時間がかかりそうでつらいけれど、なんとか前を向いて生きていこう。
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その昔、私は「人は大人になるにつれ、こなれた恋ができるようになるのだろう」と思っていた。ティーンエイジャーの頃より二十代、それよりも三十代、四十代。年を重ねれば重ねるほど恋も大人びるものだ、と。
しかし、実際には恋する女の思考回路はオバサンもはたちの娘もそう変わらないようだ。
内館牧子さんや林真理子さんのエッセイにはご本人や同年代の友人の恋の話がよく出てくるが、誕生日をひとりで過ごす寂しさに涙したり深夜の長電話で恋愛相談をしたりといったくだりを読めば、恋の前には仕事も年齢も関係がないことがわかる。新聞の読者投稿欄に、母親世代、ときには祖母世代の女性がせつない胸のうちを吐露した手記が掲載されることも少なくない。
「今から会えるか」 遠慮がちな彼の電話にルンルンの私。それまでに家事一切を片づけて、心待ちにしている自分が愛しい。ときめきだぁー! 肉体関係以上の友情、愛情が芽生え、よろめき、ときめいている二人なのだ。名前も愛称で呼び合って、日々輝いている。久々に会った娘に「おかん、このごろキレイになったなあ」なんて言われちゃった。
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これを書いたのが六十代の女性だなんて信じられるだろうか。
彼女が主婦であるという点については今日のところは横に置いておこう。私が言いたいのは「恋ってたいしたものだなあ」ということなのだ。
この年齢の女性に「ときめきだぁー!」なんて書かせてしまうテンション、パワー。彼からの呼び出しに浮かれ、愛称で呼ばれることにはしゃぎ、身も心もすっかり若返っている。
これまで、仕事オンリーの生活を送る友人や「なんかおもろいことないかな」が口癖になっている後輩に「恋をしなさい、恋を!いましないでいつするの」と口うるさく言ってきた私。だけど、恋は若者だけのものではなかったのだ。
そして、人は恋を達観することなど一生できないに違いない。
二十年後の私がこれを読んだらどう言うだろうか。「お、わかってるやん」と頷くか。それとも、「青いなあ」と苦笑いするか。
そんなことを思いながら、三十二回目の十二月二十九日の夜を過ごしている。二〇〇二年も残すところあと二日。