サイトをやっていると、モニターの前で小躍りしたくなるような言葉をいただけることがある。
「共感しました」
「お気に入りに登録しました」
「リンクしてもいいですか」
どれもうれしい、ありがたい。
そんな私をさらに有頂天にさせる言葉がある。それは「読みたいから読んでます」というものだ。
そのままズバリ、言われたことはない。しかし、「この人は私になんの見返りを求めるわけでなく、ただ純粋に読みたくて来てくれているんだな」というのは、行間から伝わってくるものだ。私はこれがなによりもうれしい。
サイトをお持ちの方は考えたことがないだろうか。カウンタなり解析なりを見ながら、「この中で、本当に自分の日記が読みたくてアクセスしてくれている人はどれだけいるんだろうか」と。
私は知りたい。
「あなたの読むから、私のも読んでね」
「私のを読んでくれてるみたいだから、あなたのところにも行くね」
そんな義理や付き合いではなく、また「アクセスはしたけど、実は五秒でバックボタン」なんていうのも除いたら、正味どのくらいのものなのかを。
先日、めずらしいカウンタを見かけた。あらかじめ設定しておいた何十秒間かが経過したときに初めてカウントする仕組みになっている。テキストを最後まで読んでくれた人がどれくらいいるのかを知りたいからだと思うが、その気持ちわかるなあ。
「リンクページから外したいサイトがあるんだけど、気がひけて」
「掲示板に書き込んでもらったから、私もなにか書きに行かなきゃ」
うちにはどちらもないから気楽なものだが、そういうことに気を遣うのはかなり面倒くさそうだ。こういう話を聞くと、「一時やりとりしてた」とか「自分のサイトを見てくれている」という理由で、読みたいわけでもないサイトを巡回ルートから外せずにいる人もけっこういるんだろうなと想像する。
私はある時期から義理で読みに行くのをやめた。日記才人の投票ボタンを外したとき、それまで毎日あった空メールのいくつかがぱったりと来なくなったのは、ただの偶然かもしれない。しかし、私はすがすがしい気分になり、そして思ったのだ。
「惰性や義理で読みに行ったところで、私が回したそのカウンタには何の価値もない。相手にそれはわからないけど、中身のないアクセスは書き手の目をくらませるだけ。そんなの、かえって不親切じゃないか」
うちのサイトに義理立ては無用だ。それはあなたの時間を無駄にするし、私をぬか喜びさせる。どちらにとってもためにならない。「書きたいものが書けている」という自負があれば、読み手の入れ替わりが悲観材料にはならないはずだ。
先日ある人から届いたメールは特別うれしいものだった。十ヶ月ぶりである。
「ああ、ずっと読みつづけてくれてたんだなあ」
胸に温かいものが広がっていく。この「私が、私が」な日記に、よく嫌気がさすことも愛想を尽かすこともなく、いてくれたものだ。もっと読みやすいテキストは他にいくらでもあるというのに。
その忍耐強さというか大らかさに、思わずモニターに向かって頭を下げた。
というわけで、今日で開設一・五周年。
「もうおなかいっぱい」になるまでお付き合いいただけるなら、書き手としてこんなうれしいことはありません。
【あとがき】 「義理読みはしません」なんてことはネット上での付き合いが少なくて、これといって失うものがない私だから言えるのかもしれないけどね。 |