もうすぐ一緒に香港を旅行する、仲良しの先輩から電話。ひとしきり、あちらで何を買う、どこへ行くといった話をしたあと、彼女が言った。
「そうそう、私カメラ持って行かんから小町ちゃん頼むな」
「え、持って行かないんですか?」
「だって重いやん」
苦笑してしまった。いるんだよなあ、こういう人。
何人かで出張や旅行に行くと必ずひとりはいるのが、ドライヤーやシャンプーを持ってこず、人が使っていると貸してと言ってくる人。忘れたわけではなく、「誰かが持ってきてるだろうから借りればいいや」と最初から持ってくる気がない。相手がそう親しい間柄でない場合は、正直いい気はしない。どうぞと手渡しながら、いちいち貸してと言うのは気も遣うし面倒だろうに、どうして持ってこないんだろうと思ったものだ。
が、私にとってそれより不思議なのは旅先にカメラを持って行こうとしない人だ。
私の特徴のひとつに「記録好き」というのがある。なんでも記念にとっておきたがると言い換えてもいい。
実家に行けばいまでも中学・高校時代の友人との交換日記や授業中にまわした手紙を読むことができるし、大学時代に観た映画のチケットの半券や旅館の箸袋なんかも後生大事にとってある。また、これを言うといつもびっくりされてしまうのだが、留守番電話の録音テープさえ保管しているぐらいである。昔の留守電は電話機にセットされた小さなカセットテープで録音する方式だった。そんな電話機はもうないので、メッセージを再生することもできないのだけれど、当時好きだった人や友人の声がこれに詰まっていると思うと処分できない。
こんな私にとって、旅先の写真をアルバムに仕上げることはれっきとした旅の楽しみのひとつなのである。たしかに手間はかかるが、道程を思い出しながら写真を選び、パンフレットや乗り物の切符を見栄えよく並べ、こまごまとコメントを書いていく作業は旅を「一粒で二度おいしく」味わう感じで、とても楽しい。面倒くさがり屋の私が生活の中でマメさを発揮する、数少ない場面のひとつだ。
それだけに、写真は他人まかせ、もしくは「いらない」という人に出会うと驚いてしまう。以前、一緒に旅した友人が「写真は撮らない」主義だった。
「この光景って、この地にこの瞬間だけに存在するものでしょう。あとから写真で見られるものと、今見ているものとは別物だから、撮っても意味がないと思う。だから、私は記憶に焼きつけるだけでいい」
言わんとすることはわかるのだけれど、いつまでも記憶の輪郭をくっきりさせておくために私はやっぱり写真にも残したいと思う。家族とも感動の一端を共有したいと思う。
が、やはり彼女の隣でパシャパシャやるのは気が引けて、その旅のアルバムがずいぶん薄いものになってしまったのは残念であった。
私がモノをなかなか捨てられないのも、過ぎた日を懐かしむためにアルバム作りに凝るのも、自分の軌跡に対する執着が強いからだと分析している。
こうして書いているweb日記だってそうだ。更新したら自分の手を離れたものとして興味を失い、とくに読み返すこともないという人もいるようだが、私は推敲を終えて更新したあとも何度でも読む。一字一句違わずまた同じ文章が書けるんじゃないかというほどに。
私は昔から書いた文章を捨てるということがどうしてもできなかった。人に言うと、「そんな価値のあるものか」「ナルシストか」と笑われそうだが、ボツにした日記であれ投函しなかった手紙であれ、いったん自分の中からひねりだした文章を捨てるのは忍びない。たとえ出来は悪くとも、生まれたものへの愛着は深い。書くことそのものよりも、書いたものを集める楽しみ、後から読み返す楽しみのほうが勝っているとさえ思う。
インターネット上に公開しているからには、この日記が多くの人に読んでもらえたらうれしいとは思う。しかし、「どうしたら喜んでもらえるだろう」を考えることはない。私にとって文章を書くという行為はマスターベーションだから。この先もそうありつづけたい。
得られるものが何なのか。それは「書く」のが好きな人にはわかってもらえるのではないかな。
【あとがき】 写真好きなわりに、撮るのは下手くそ。たまにいるでしょ、背景の風景はきれいに入ってるんだけど、「肝心の人物の頭が切れとるやんケ!」な写真撮る人。ここぞという写真は全部ブレてるとか。それが私です。力みすぎなんでしょうか。それが怖いので、最近は見知らぬ人にシャッター押してと言われたら、友人に「撮ってあげて」と頼むようにしています。で、私はその隣で「笑って笑って〜。お、いいねえ、その笑顔ちょうだい!」などと言って盛り上げる(下げる?)係です。 |