「人はタクシーを止める瞬間、ささやかな運命論者になる」と言ったのは向田邦子さんであるが、たしかに私たちは心の中で“運試し”をしながら生きているように思う。
たとえば、映画館や新幹線で。まもなくやってきて隣席に座るであろう人を思うとき、私はいつも念じる。
「うるさいカップルは勘弁して」
「どうか太った人ではありませんように」
初めての美容院を訪れたときもそうだ。上手な美容師さんに当たってちょうだい、とまるでルーレットの玉が落ちるのを息を詰めて見つめているときのような、祈りに近い気持ちになる。
人は“いちかばちか”をするとき、心の中に「なるようになる」という楽観と「なるようにしかならない」というあきらめの両方を用意する。運を天にまかせることによって勇気を出しやすくなるということはたしかにあるし、たとえ失敗しても「しかたがない、そういう運命だったのよ」と早く立ち直れそうな気がする。占いの類には興味のない私も、こういう賭けなら心の中でしょっちゅうやっている。
いまでこそ先に挙げたようなささやかなものしかやらないけれど、その昔は恋愛事に関するけっこうヘビーな運試しもしたものだ。どうしても勇気が出ないとき、判断がつかないときに、
「もし明日の飲み会であの人と近くの席になったら、縁があると信じよう」
「週末までに彼から電話があったら、デートに誘おう。かかってこなかったら、脈がないと思ってあきらめよう……」
なんていう具合に。
中でもひとつ、忘れられない賭けがある。
別れて二年が過ぎても忘れられない……。そんな人がいた頃があった。
が、強がりな私にすでに自分のことを忘れて新しい生活を送っている相手に「やっぱり好きなの」とすがるような真似ができるわけがない。電話に手を伸ばしそうになるたび、「プライドを持て!」と気持ちをねじふせた。しかし、「前にも進めないし、後にも戻れない。私はいつになったらこのトンネルを抜けられるのだろう」と焦燥感ばかりが募る毎日だった。
が、チャンスは突然訪れた。何の因果か、私は彼の従兄と同じ職場だったのだけれど、その男性の父親が亡くなり、部署の者全員で焼香に行くことになったのである。
亡くなったのは彼の伯父だ。通夜に出席しないはずがない。会えるかもしれない……!期待と緊張で体が震えた。
通夜はその男性の自宅で行われた。いかにも旧家という雰囲気の古くて大きな家だった。
私は記帳しながら、玄関で弔問客に頭を下げる親族の中に彼の姿を探した。弔問客の長い列が表まで伸びていた。私たちは玉砂利の庭に設けられた焼香台に進むまでに何十分も待たなくてはならなかったが、私は彼を探して、探して、探していた。
ようやく焼香台が見える位置まできたそのとき。私はついに見つけた。前方の広い和室に庭を背にして親族が正座し、読経を聞いている。その中に彼がいた。
声をかけたら必ず届く、そんな距離に彼がいる。懐かしい背中に思わず涙があふれた。
私がこの庭を立ち去るまでに彼は振り返るだろうか。何かを感じて振り返り、弔問客の中に私を見つけるだろうか。
私は賭けた。もし彼が振り返ったら、私は彼に伝えよう。もし振り返らなかったら……彼をあきらめる。
それからかなりの月日が経ち、彼と話す機会があった。
「兄ちゃんに聞いたよ。あのとき来てたんやってな」
「うん」
「でも会えんかったな」
「うん」
それからまた何年かして。私は別の男性と結婚をした。
【あとがき】 「息を詰めて見守る」とはこういう心境をいうのだなと初めて知りました。私の焼香の番が回ってきて、私は心の中で叫びました。「いま、あなたの数メートル後ろに私が立っているのよ。どうか振り返って!」と。だけど、彼はついに振り返りませんでした。いまは思います。あのとき賭けをしてよかった。あれがなければ、私の中でいつまでも彼への思いがくすぶりつづけていたかもしれない。いまの幸せは手に入らなかったでしょう。ああいうシチュエーションが起き、私が「賭けをしようと思った」そのこと自体がめぐりあわせだったのかなという気がします。 |