目の前に三人の男性が座っている。
左端の男性の唇はまるでねじ曲げられたように横にゆがんでいる。口の中からこぼれてくる液体をしきりにぬぐう、その手には指がなかった。真ん中の男性は手首が不自然な方向に曲がったまま固まっている。ほとんど視力がないという一番右の男性は義足だった。
京都の某大学で学祭の催しとして行われた、ある講演会を聴きに行ってきた。テーマは『ハンセン病元患者の叫び〜隔離の悲劇とらい予防法〜』。
三人の男性は十代でハンセン病を患い、「患者を終身強制隔離して療養所で絶滅させるための政策」によって、人生の大半を人間として生きられなかった人たちだ。
ハンセン病というのは、「らい菌」が末梢神経を犯すことで知覚麻痺や運動麻痺が起こる感染症である。そのため顔面や四肢の変形、皮膚のただれなどが起きる。伝染力は極めて弱いが、外見上に表れる症状ゆえに、「天刑病(前世での悪業による病)」として激しく嫌悪、差別されてきた。そして一九三一年、先進国の仲間入りを果たそうと考えていた日本は、ハンセン病の存在が欧米人の目に触れることを嫌って『らい予防法』を施行、すべての患者を療養所に強制収容したのである。
一九五〇年代には特効薬のおかげでもはや隔離の必要のない病になったが、この法律は改廃されることなく一九九六年まで生き続けた。
男性たちは十代で収容されてから、今もなお療養所で暮らしている。在園は五十年以上に及ぶ。その話は「この日本で、しかも戦後に本当にそんなことが?」とにわかには信じられぬほど残酷さと悲しみに満ちていた。
当時十二才だったひとりの男性は、療養所に着くなり職員に言われた言葉をいまでも忘れないという。
「あれが火葬場、その隣が納骨場、その隣が監房だ。おまえは一生ここから出られない」
そんなはずはない、病気が治れば家に帰れると思ったが、その言葉は本当だった。患者の出た家は真っ白になるまで消毒され、家族は村を追われた。激しい差別によって親子の縁を切らざるを得ず、骨になっても故郷に帰れない仲間がたくさんいた。この男性も母親から「他の兄弟たちが結婚できなくなってしまう。もう帰って来ないで」と言われ、肉親と絶縁した。
また別の男性は治癒後に療養所を脱走し、五年間社会に出て暮らしたという。しかし、ハンセン病だったことが知れると連れ戻されてしまうため、まわりの人には四肢の変形を原爆症だと説明した。どんなに親しい友人にも打ち明けることができないこと、大阪生まれの自分がそのような嘘をつかねば生きていけないことが情けなく、ただただ悔しかったと涙を流す。
結婚は療養所内での結婚、つまり患者同士であれば認められた。ただし、男性が「断種手術」を受けることが条件で。少し前、ハンセン病のドキュメンタリー番組を見たとき、テレビの中の男性が泣いていた。
「結婚するためにね、私、断種手術を受けたんですよ。だけど、私を手術したのは医者ではありませんでした。豚や牛を診る家畜の獣医だったんです」
強制隔離政策で人権侵害を受けたと主張し、入所者ら元患者が国を相手に訴訟を起こした。その判決がこの五月に下り、国は「隔離政策は誤りだった」と認めた。
しかし、全国の療養所に入所している四千四百人のうち、社会復帰を希望しているのは八十六人。たったの二%だ。
隔離による肉親との断絶、社会生活の経験のなさ、差別・偏見に対する恐怖、高齢化------さまざまな問題が彼らを押しとどめている。里帰りすらできないでいる。隔離政策は彼らと家族の人生をめちゃくちゃにし、法律を廃止しただけでは消せないほど強固な社会的差別・偏見を生んだのだ。
政策が誤りであったという謝罪とハンセン病に対する正しい認識を啓発すること、元患者の人間性の回復と今後の生活の保障、社会復帰を望む者への支援制度を充実させること------もはや、こういうことでしか償いようがない。
しかし、彼らは失ったもの、いや奪われたものを何ひとつ取り戻すことはできない。
講演が終わり、建物から出た私にあちこちから威勢のいい声がかかる。
「タコ焼きいかがっすかーー」
「おねーさん、みたらし団子どう?負けときますよー」
まわりを見渡すと、お母さんに綿菓子をねだる子ども、ベンチにはひと舟の焼きそばを仲良く食べるカップル。どの顔もこの世にこれ以上楽しいことはないと言っているかのようだ。
「ふつうに勉強をして、ふつうに恋をして、ふつうに就職をして、ふつうに結婚をする。私はそんな暮らしがしたかった」
その言葉を思い出したら、視界がぼやけた。
【あとがき】 チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー』という映画を見たことはありますか?ベン・ハーの母親と妹は「業病」で死の谷に入れられていたのですが、字幕スーパーで「業病」と訳されていたその病気がハンセン病のことなんですよね。全身を布でくるんで隠し、人に姿を見られることを恐れて生活しているシーンに、「現実にこんな恐ろしい残酷な病気があるなんて」と戦慄しました。講演会で男性が言っていた、「後遺症が残っているのと菌があるのは別なんです。私たちはもう治っているんです」と訴えていたのが心に残っています。 |