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- 2005年09月24日(土)
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- 沖縄の戦後を結ぶ、南北縦断ドライブ決行!!
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(9月8日〜12日の沖縄旅行記のつづきです)
前回(09月15日(木)の日記)、セスナで台風のケラマ諸島から本島へ帰還したハラであったが、 午前10時に那覇空港へ再び降り立ち、さてこの3日目は何をしようかと考えた。
そこで思いついたのが、 沖縄本島・南北縦断ドライブ!!
思いついた時は、南北縦断にあまり深い意味はなかった。 「なんとなく沖縄制覇!って感じでいいじゃん」みたいな、そんなノリである。
下記MAPの緑色の矢印が、ハラの予定コースである。
国道331号線を南へ下り、南の目標である「ひめゆりの塔」へ立ち寄る。 それから北上して、沖縄高速へ乗り、名護からは沖縄の大動脈である 国道58号線をひたすら北へと向かう。そして北端の目標である「辺戸岬」がゴールである。
周辺の観光や買い物を済ませ、レンタカー屋でクルマを借りて 出発したのが、午前11時50分頃。 那覇を出る前に昼食を済ませ、いざ「ひめゆりの塔」へ向かって スタートを切ったのが午後12時半頃であった。
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午後1時30分 「ひめゆりの塔」到着
まずは、 そもそも「ひめゆりの塔」って何だっけ? という人に簡単に説明します。
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太平洋戦争末期の1945年4月に47万の米軍が上陸し、日本で唯一の地上戦が沖縄で勃発した。 軍部は、一般県民である沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人を従軍看護婦として「ひめゆり部隊」を結成。高校生の看護婦たちは戦火の中、市民や兵士の必死の看護を続けていた。
しかし、約2ヶ月で次々に陣地を攻略され、首里城地下の司令部も耐えきれず南部への撤退を余儀なくされる。これに伴い「ひめゆり部隊」が配属されていた陸軍病院を捨て、「ひめゆり部隊」も司令部とともに南へ移動。徐々に南端へと追いつめられていった。
彼女達がたどりついた最後の場所が「旧陸軍第3外科壕」。この壕に部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をついていた。
6月18日、陸軍司令官の牛島中将が突如、「最後まで戦い天皇陛下のため死ぬべし」という命令とともに「ひめゆり部隊」を解散させる。当の牛島中将はにこの後すぐに自決したのだ。つまり市民を巻き込んでおいて、最後の最後で市民を放り出したわけである。
彼女達は命令に従い最後まで看護を続けるべく生き残ろうとするが、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかであった。この最後の壕の上に建てられたのが「ひめゆりの塔」である。壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、現在の私たちの想像を絶するものがある。
「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち「解散」後の死者が128人であった。沖縄は日本軍の「捨て石」とされたのである。沖縄では司令官の最後の命令に従って無条件降伏以後も戦い続けた。無駄な戦死者を大勢生んだ当時の日本軍の無責任さを象徴する碑でもある。 |
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ハラは今回で4度目の沖縄であるが、実は「ひめゆりの塔」や「首里城」といったベタベタな沖縄観光地は初めてである。
こうした観光地を多くの人々が訪れているが、その背景を知って訪れている人は一体どのくらいいるのだろうか?
私も単なる南北縦断の南の目的地として訪れるわけにはいかないと、覚えていた限りの知識を総動員しながら、この地へクルマを走らせた。
1. 深い樹々に覆われた向こうに 「ひめゆりの塔」がある。
この入口付近で、何か異なる空気感を 感じてしまっているハラでした。
2. さっそくお嬢は営業。
3. 「ひめゆりの塔」
近くで撮影するのがはばかられたので少し遠目から撮影。実際には近くまで足を運んで壕の中も見ました …っていうか、瞬間しか見られなかったです。あまりに感じるものがありすぎて凝視できませんでした。
4. 入口でお花を買いました。
5. 塔の前には献花台があり、 沢山の花が摘まれていました。 ハラもこの上に花を置き、手を合わせました。
6. この碑に、冒頭で書いたような 「ひめゆり部隊」の説明が記されています。
7. 去り際にお嬢は犬に営業。
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ここを訪れる沢山のナイチャー(内地人=沖縄外の日本人)たちを、 沖縄の人はどう思って見ているのだろうか?
そんな想いで「ひめゆり」を後にする。
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「ひめゆりの塔」を出て、北へと向かい始めたのが、 午後1時50分頃であった。
ここよりさらに南西にある沖縄・八重山諸島が、台風15号の暴風圏に入り、 本島も波風の影響を受け始めていた。
沖縄高速に乗って、名護からは沖縄の大動脈であるルート58をひた走る。
台風でも、沖縄の海はエメラルドブルーであった(写真3)。天気は極端にめまぐるしく変わる。 雨に襲われる時はハンパなく降り注ぐのが沖縄(写真4)。 バシャバシャバシャと雨粒がフロントミラーを打ち付けて、視界ゼロになる時もあり。
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午後4時30分 「辺戸岬」到着
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沖縄最北端の岬には、台風雲の一番端が忍び寄っていた。 |
沖縄本島最北端・辺戸岬。
太平洋と東シナ海の荒波がこの岬の下でぶつかり合い、 切り立った断崖に激しく打ちよせます。晴れた日には、 水平線上に鹿児島県の与論島が見えるとのこと。
この岬では、かつて本土復帰を願って「かがり火集会」が 行われていたらしいです。そういう経緯もあってか、 1972年に沖縄が日本へ返還された時、この場所に
「祖国復帰闘争記念碑」
が建てられたわけです。
沖縄の本国復帰の象徴が この岬にはあるわけです。
岬で風にあおられるワンコ。 (写真4)
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こうして、沖縄本島の南北縦断をしてみたわけですが、 皆さんお気づきになったでしょうか?
沖縄は 南端で日本から見放され、 北端で日本に結ばれたわけです。
南北縦断ドライブは、 沖縄の米国占領下時代をワープする旅だと、 岬の断崖を打つ波飛沫を見ながら思いました。
050924 taichi
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