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- 2005年06月30日(木)
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- ♀にはバイキングを、♂には食べ放題を。
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♂と♀では、 遺伝子に組み込まれた命令が異なるという。
♂は 「ばら撒きたい」
♀は 「選びたい」
だそうだ。
これは 人間に限らず、 生物共通の 話だろう。
男と女は 違うようで、 実は全く 同じである。
矢印の向きが 違うだけ。
能動的か 受動的かの差。
| 昔描いた手描きイラスト。 |
双方とも、 たくさん異性間の関係を持ちたいことには変わりない。
これは、本能である。誰しもこの本能を持っている。 動物はこれに従って行動しているのだ。
しかし、理性を持ち、「我慢」という技術をもち、 社会的動物として進化した人間は、個体によってその程度が異なる。
「我慢」という技術の有無が、人間と他の動物を区別する。 社会の中で生きるからこそ、「我慢」が生まれた。
「我慢」できない人間ほど、遺伝子命令に忠実になる。 つまり、動物に近い行動をとるようになる。 恋人がいようが配偶者がいようが、 「ばら撒いて」「選び」続けることをやめられない。
ただし、物事には「程度」がある。 完璧に「我慢」できる人間が、一番最上位の生物かといったら、ありえない。
自ら抑制しっ放しの人間は、 つまり社会にとっては完璧な歯車かもしれないが、 己の生体にとっては不健康極まりないはず。 他の人間にとっては不気味極まりないはず。 不気味な人間はコミュニケーションが不足し孤立化し、 完璧な理性を持ちながら社会的でなくなるのだ。
壊れるときがあったっていい。 放ってしまったときがあってもいい。 抑制と解放のバランスを保つことが大事。
結局、「本能」に逆らってはいけないのだ。 しかし、間違ってはいけないのが「人間の本能」の解釈。
自我を持つ動物である人間の本能とは、 他の動物のように、相手構わず「ばら撒く」「選ぶ」ではなく、 「他人との関係を持ちたい」という本能なのだ。 ばら撒いて、選んで、他人を感じる行為によって、 自分を感じたいというのが人間の本能だと思う。
放つにしろ、我慢にしろ、 相手が見えてることが大事。 相手を思いやれることが大事。 自分しか見えてないのは愚か。
そもそも自分を「自分」と思わせてくれるのは 何を隠そう他人がいるからである。
自我のストレスなき開放と、 他人との関係をキープする抑制。 この自他の間の適度な葛藤こそが、 健康的であり、人間の本能そのもの。
双方とも、あくまで性欲は別ですが、
男には、獲得欲求を満たす食べ放題を、 女には、選択欲求を満たすバイキングを、
互いに適度に与え合うように、 コミュニケーションして調整することが大切。
050630 taichi
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