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2年前の4月11日、父は死んだ。
(→2003年04月25日(金) 生と死と・・・)
亡くなる前日の朝に母からの報を受け、 俺は実家がある長野へ飛んだ。 昏睡状態の父に面会した後、父の荷物を取りに実家へ寄った。
狼狽する母を横目に、私は冷静なつもりだった。 しかしながら今振り返ると、実家に戻って タオルやら何やらと荷物を探していたはずなのだが、 実は、この間の記憶が全く無い。
唯一鮮明に覚えているのが、1本のモクレンの木だった。
その木は清楚な白い花を 咲かせていたが、風にあおられて 激しく散っている最中であった。
木の下に散った白い花びらは、 逃げ惑う鳥が撒き散らした 羽のようにも見えた。
5階にある実家のベランダから 散って舞い落ちる白いものを 呆と眺めていたのだ。
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先日の4月9日の土曜日に、 父の三回忌で実家へ帰省した。
2年前と同じように5階から モクレンの白い花が見えた。
2年前より2日早いからか、 花はしっかりと咲いていた。 | |
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「三回忌」というのは、故人が亡くなってから2年目に行う。 亡くなった時が「1回忌」として数えて3回目ということ。
亡くなって1年目の昨年に行ったのが「1周忌」である。 本来、1周忌までには墓を用意して、法要の時に納骨となるのだが、 ウチの場合は経済的理由から墓を用意出来ず、納骨は出来なかった。
しかし、2年目の今年、母はやっと父の墓を用意した。
母と弟と私の3人で、三回忌法要を行う寺へ行くと、 そこには立派な父の墓が建てられていた。(寺に隣接する土地にお墓がある)
母はとても感慨深げであった。
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思えばこの2年、兄の私は 父の墓の事で母から何度も相談の電話を受けた。
「○○屋というところの墓を考えてるけど、一緒に見てほしい」
「真ん中に『蓮花』があるやつとか色々あるけどどれがいい?」
「墓石に掘る文字は何がいいかね?やっぱり『ハラ家』かな? でもお世話になってるお寺さんは浄土真宗だから、それでいくと 『南無阿弥陀仏』ってことになるんだけど、どう思う?」
「お金があと○○万円足らないんだけど、どうする? やっぱりせめて1周忌に間に合わせたいよね〜」
その度に俺は
「お袋が好きなようにしたらいいじゃんか」
「そもそも親父は『骨なんて海に撒いてくれ』って云ってたんだから そんなに神経質になんなよ!親父の意に反するよ!」
「お金無理してまで建ててどうするよ!親戚から色々云われて プレッシャーがあるのも分かるけどさ、でもウチにはウチの 事情があんだから、ウチのペースでお金貯めて、それで 建てられる時期に建てりゃいいんだよ!」
…などと云って、お袋を諭していた。 実際、一緒に墓石を選びにもいった事もあった。 しかしながら、お袋の墓へのこだわりは 何がそうさせているのか?とずっと不思議に思っていたのだ。
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お袋は、父亡き後ずっと
「ちゃんとした墓を建てるのが 私に残された使命なような気がする」
と云い続けていた。
最愛の人を亡くした母の精神状態も分からなくないが、 どうしても、墓にこだわるお袋が理解しきれなかった。
そもそも俺は「宗教チック」なノリが嫌いであったし、 親父がウチの状況を心配して「骨は海に撒け、墓なんていらん」 と遺言に近いものを残していたし、母のこだわり方は どうしても父の意志に反しているような気がしていた。
しかし、三回忌の日、 お寺の土地に建てられた墓を実際に見た時、 お袋の気持ちがやっと分かった。
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お袋はずっと、破天荒な親父の後をついて、 決して順風満帆とは云えない生活を過ごしてきた。 しかし苦労の連続ではあったものの、不幸せではなかったはずだ。 この人だ、と決めた相手に必死でついてきた人生だ。
そんな母にとって、父の意に反した 立派な(決して華美ではない)墓を建てたのは、 唯一の父への抵抗だったのだ。
「破天荒に好きなように生きたあげく、 あたしと子を置いて先に逝きやがったくせに、 何が『骨は海に撒け』だ!かっこつけんな!」
お袋なりの親父への「復讐」であり、と同時に、 天の邪鬼だった親父だからこそ、それに見合う 妻としての最高の愛情と敬意なのかもしれない。
さらに、 墓石の裏面を見ると、この墓を建碑した親族の名として お袋と一緒に石を選んだ私の名前も彫られている。
私は「はっ」と思った。
お袋は、上記のような思いを 私に共有してほしかったのだ。
だから、色々と墓の事について、 しつこく私に相談してきたのだ。
お袋は、上記のような思いを一人で抱く時、 ものすごく寂しかったに違いない。
私は「亡き父の意志」にばかりとらわれ、 さらに経済面で母の実生活を圧迫することを嫌い、 墓石にこだわることを、母の側から捉えきれなかったのだ。
未だ肌寒い長野では、まだ桜は開花していなかった。 お寺の固いつぼみの枝垂桜が静かに垂れる中、 2年間待ち続けた父の遺骨が、墓石の下に静かに仕舞われた。
花を活け、線香をあげるお袋の顔には 使命を成し遂げた安堵の表情があった。
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親戚が集まっての法事も終えて、 実家に帰ってきた時、外でモクレンの花を間近に見た。
よく見ると、花たちは これから力強く咲こうとしているところであった。 | |
ちなみに、 2月に記事投稿した、母の勤めるパン屋は(→2005年02月26日(土)60歳の母に負けている。) さらに売上が伸びているとのこと。
一時は月50万の売上だったのが、80万になり、90万になり、 今ではコンスタントに月100万円を超えるようになったとか。
俺は母に云った。
「墓が出来たからっていって、ボケんじゃねえぞ。 お袋がいなきゃ、パン屋がつぶれちゃうぞ」
それは、4月から会社にて 管理統括業務を任された自分にも言い聞かせていた。
母も俺も、もう過去を振り返らず、 先へ先へと新しい道を歩いていくのだ。
050411 taichi
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