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※この日記は2/19の裏日記に掲載したものですが、 思いのほか反響がありましたので、AIRにて掲載することにしました。
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毎朝、母はパン屋で生地をこねている。
実家の長野で一人暮らしをしている60歳の母は、 毎日朝の7時半にパートのパン屋に出勤して仕込みを始める。
職場には母より少し年下のOさんというオバサンと、 26歳のTさんという女の子がいて、3人で店を切り盛りしている。
特に26歳のTさんとはウマが合うらしい。 端から見るとケンカしているような感じで云い合いながらも、 実は互いに分かり合っている軽妙なコンビネーションとのこと。 Tさんは、プライベートでも母を色々助けてくれていて、 俺は大変感謝していた。
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一昨年、父が亡くなった後、母はこのパン屋に勤めだした。 父が亡くなる直前に会社を解雇され、必死で探した職場だったが、 まさか、父亡き後の母を支える場所になるとは思ってもみなかった。 父の死の覚悟はしていたものの、いざ現実となってみると。 母も俺も本当の心の準備をしていなかったことに気づかされた。
母は云った。
「今のあのパン屋が無かったらと思うとゾッとするよ。 あの場所は、今の私の唯一の社会との接点なのよ。あそこにいると 『ああ、まだ私は社会に必要とされているんだな』と思えるの。」
父亡き後、俺は田舎に戻れなかった。母一人を残して これまで通り東京で働き続けるしかなかった。親不孝である。 そんな独り身の60歳の女性を支えてきたのがパン屋であった。 その歳でよくそんな再就職場所を見つけることが出来たものだ。
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一昨年末、そのパン屋に危機が訪れた。 パン屋の社長が母に、 「売り上げが落ち続けていて、このままでは店を閉めなければならない」 と伝えたのだ。
母は焦った。 「どうしても店を閉めさすわけにはいかない! あの場所が無くなったら、私どうなるのよ!」
次の日から、母は店のパンを買い始めた。
最低でも一ヶ月80万円程度の売上がないと経営できないという。 当時の売上の一ヶ月平均は50万円程度に落ち込んでいた。 母は自分の居場所が無くなってしまうという危機感から、 店のパンを自分で買って、三度の食事に当て始めたのだ。
それ以外にも母は、2つのことを行った。
1つは材料費の削減である。売上が減っているなかで、 店を潰さないためには、材料費を削って利益を確保しなければならない。 具のソーセージを半分にして、切り方の工夫で食感を損ねないようにした。 クリームや餡の量を減らす分、生地の質と焼き加減でパンそのものの 歯ごたえをアップさせてリカバリーした。 コーンなどの具も仕入先を調べまくって、安い仕入業者を探し出した。
2つめは、つまり口コミ販促。 近所の人やスーパーで合う人達に声をかけまくったのである。
この母の「絶対につぶしてなるものか」という執念が、 他の2人の従業員にも乗り移っていった。
26歳のTさんは、遠くからタクシーで通っている。 そのタクシーの運チャンに大々的に営業をかけたのだ。 そして、運チャンがさらにお客さんに声をかけまくって、 周辺の人々が足を運び始めたのである。 55歳のOさんも、閉店間際になると、 売れ残ったパンを買って帰るようになった。
そうこうするうちに、一昨年末で50万円の売上だったのが、 昨年2月頃には70万円台まで回復していったのだ。
しかし、そこからがまた伸び悩んだ。 パン屋の社長は、そこまでの回復を褒めもせず3人に云った。
「もう少し様子見るけど、やっぱ素人じゃ昔のようには無理かな…」
母は悔しくて仕方なかったという。
「小手先の努力だけでは、これが限界。やっぱり2度3度と 足を運んでもらうためには、『あそこのパンはおいしい!』 って思わせなければダメだ!やるしかないっ!」
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そのパン屋に勤める女性3人は、全員素人である。
母は勤めだした時から、パン生地のこね方の講習会などへ出向いて、 テクニックを勉強していたが、さらに積極的に勉強に励んだ。
母と一緒に勤めているOさんというオバサンは このパン屋で一番長く働いている人であった。 Oさんによると、このパン屋は昔は職人が何人もいて、 おいしいと評判の店であったらしい。そんな昔を知るだけに、 素人3人でなんとか切り盛りしている今の店の現状に、 Oさんのテンションは下がりっ放しであった。
仕事をしながらOさんは、事あるごとに母とTさんに
「あの頃はこうだった、良かった、それに比べて今は…」
という愚痴を云っていた。
再び売り上げが伸び悩み始めた時、 必死でパン生地をこねていた母の隣でOさんが云った。
「やっぱり素人ではダメね。昔のように職人がいないとダメなのよ」
これを聞いた時、母はとうとうキレた。
「Oさん。あたしね、確かに素人だけど、ここでパンつくってる時は、 自分はプロなんだと思って創ってるの。そう思って作業しなきゃ、 絶対に職人が創るようなパンに近づけやしないもの。 そりゃー昔は良かったんでしょうけど、私は今のこのパン屋しか知らない。 私にとってこのパン屋は、今の私の人生そのものなの。無くなったら困る。 職人がいなければダメなら、私が職人になるわ。そう思ってやってる。 昔と比べたら確かにダメよ。でもダメと思いながらつくったら、 ダメなパンしか出来ないのよ。それじゃ絶対にお客さんは戻ってこない。 そう思わない?Oさん!社長に対して悔しくないの? 昔を知ってるなら尚更悔しくないの?」
そのままOさんは黙ってしまったらしい。
隣で黙って聞いていたTさんは、 眉間を皺を寄せて黙々と作業をしていた。
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次の日から、Oさんの仕事ぶりが変わった。 愚痴は一切云わなくなり、新しい具のアイデアを自分から切り出した。
3人で話し合い、試行錯誤しながらパンを作り始めた。 おいしいと思わせると同時に、材料費はより削っていかなければならない。 焼き加減、味付け、盛りつけなどを工夫して、味とコストの両立を考えた。
そうこうするうちに、リピーター客が増えてきた。 近くの建設会社の社長が毎晩訪れるようになった。 隣のスーパーでレジ打ちしているオバサンが買いにくるようになった。 「なんか、おいしいって聞いたから」という人が僅かであるが、 訪れるようになった。売り切れるパンが増えてきた。 さらには、社長の計らいで他店舗から不定期に職人がヘルプで来て、 食パンを創っていった。その食パンはさすがに旨いと評判が立った。
そして、昨年の夏以降、 とうとう一ヶ月の売上額がボーダーラインの80万を超えて、 90万円台に突入し、そのラインをキープ出来るようになった。
めったに褒めない社長が母に云った。
「3人とも、よくがんばったな。店は当分閉める事は無いよ。 この調子で、なんとか100万円台に乗せたいね」
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今現在、母はもう 三度の食事用に店のパンを買っていない。 そこまでしなくとも、店は軌道に乗っているのだ。
今年の正月に帰省した時に、 母からこのパン屋の話を聞いた。
父に頼りっきりだった母であった。 父亡き後は精神的に危うかった。 そんな母をここまで強くしてくれたこのパン屋に感謝した。
そして、
「今の俺、働く人間として、お袋に完全に負けてるな」
と思い知らされた。
がんばらねば。
050219
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AIR〜the pulp essay〜_ハラタイチ
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