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漆黒の海を泳いでいた。
厳密に云えば、彼は泳いでいるのではない。 彼方に見える白浜の無人島を目指すでもなく、 水流が身体をすり抜けていく感触を味わうこともなく、 ただ、「泳ぐ」という動作を四肢が行っていた。 何もしなければ沈んでしまう、だから泳いでいた。
黒く重い水が彼の身体に纏わりつき、深く暗い底へと 引きづり込もうとしている、…と彼は感じていた。 「沈んでしまう」と身体が察知すると手足が動きだす。 それだけのことであった。
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その昔、彼は泳ぐのが好きだった。
初めて海に出た時の感動は今でも忘れない。 自らの手で、力で、自由にどこまでも進んでゆける喜び。 碧く煌めく海、極彩色の魚、未知の島々、出会う人々。 手で水を掻きながら、五感が得ていく新しい情景と情感。 果てしない大海原が目の前で広がっていく様は、 彼の内なる世界の広がりとシンクロした。
彼はすぐに満たされた。
自分の満足のために割かれたスペースは 彼の内なる世界の中でそれほど広くなかった。 己だけで完結する満足には、もう興味が無かった。 この喜びを共有する他人の存在を欲した。 今度は、自分以外の人の目で世界を見たいと思った。 自分以外の心で世界を感じてみたいと切に願い、 彼は再び力強く泳ぎはじめた。
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現実が黒なのか? それとも、現実は蒼なのに、 彼の網膜と視神経が黒に見せているだけなのか? あの頃、蒼かった海は目の前にない。 ただただ、どこまでも続く墨塗りの海が、 彼の視界に広がっていた。
ふと、一隻の船が彼の脳裏に浮かんだ。 彼は壊れたボートとともに海へ沈みながら、 去っていくその船を、海の中から眺めている…
いつも突然、頭に差し込まれるシーンであった。
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船が去り、彼が再び一人になった時、 しばらくの間、彼の目に映る海はまだ蒼かった。
その頃、ひたすら繰り返される四肢の受け身な運動に、 何かの目的を与えようと彼は何度も試みたことがあった。 海鳥のさえずりにあわせて、歌を唄ってみた。 なついてくるエンゼルフィッシュを飼ってみたりした。 珊瑚の色を頭の中で好みの色に塗り替えてみたりした。 漂流する木片のところまで、全力で泳いでみたこともあった。 彼は愉しかった。自分を五感で確かめられることが嬉しかった。
ただしその歓びは、その時だけに過ぎなかった…。
彼は怖かった。
愉しみが終わった直後に襲われる、 抗うことの出来ない虚無感が怖かった。 何をやっても、直後に必ずそれは彼の中に現れて、 すべての有機的なもの、ポジティブなものをさらっていく。 さらには、彼自身をさらおうとした。 その度に彼は動けなくなり、海の底へ沈んでいくのだ。
蒼色の海の下に広がる暗黒の世界が、 彼が堕ちてくるのを待っていた。 四肢を投げ、身体を任せて、黒い海の底へと沈みゆく時、 何故か甘美な薫りが彼の脳内で広がっていく。 毎日、頭上に見える海面で、沈まないように手足を動かし、 あらがい続けている姿が馬鹿馬鹿しく思えてくるのだ。 暗黒はささやく。沈みゆく彼に語りかけてくる。
…何のために、お前は泳いでいる。 己で完結する満足はもう無いんだろ? 己のために生きようとしていた頃に戻るには、 記憶の全て、世界の全てを初期化するしかない。 子供の頃の、あの真っ更なメモリに戻さない限り、 お前が幸せを得ることはない、そう思わないか?…
言葉が頭の中を染み込んでいく途中で、 いつも彼は我に返る。そして掻きむしる様に四肢を動かし、 海面へと戻っていくのだ。
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半年の間、それを繰り返すうちに、
彼の目に映る、彼が泳ぐ海は、
すべてが漆黒と化していった。
(いつかつづく)
04 12 22 t a i c h i
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AIR〜the pulp essay〜_ハラタイチ
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