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2008年04月20日(日) 写音真楽

「音を捉えて物を言うのは良くない。音は自然のままであるべきだ。自分の脳で立ち上がった音を聞くこと。それが音楽だ」ジョン・ケージ

『音楽を考える』という本を読んでいて眼に入ったこの文章。音の部分を写真に変えて読むと「あっ、な〜る」と思い、写真を観るという行為の基本がぎゅん、と腑に落ちた。落下が勢い良すぎて腑の底が痛いくらいさね。
つまり写真に写った「被写体」は、被写体そのものでありそれ以上にも以下にもなりはしない。それは批評、意見を述べるにおいて真なる対象ではないのだ。ほんとうに眼を向けるべくは、写真を見た瞬間に己の心の内でぶわんと弾けたり、ぴりっと痺れたり、ぬらぬらと濡れたりした情感にこそあるのだ。何故己の情感がそのような動きを見せたか、何故そのように情感が動いたのか、そこを考えて言葉にするということが写真を見るということなのだと思った。概ねそのように情感を震わせうる写真は一見被写体も構図も色も良いので、被写体を見て構図を見て色を見てついつい意見を述べてしまいがちだがそれはちと違う。そのような意見を言うことを常としている人の写真は大概どこも濡れたような部分がなくて妙に機械的。おそらくなぞるがだけの意見がそのまま残酷なまでに何処かで見たような気のする写真をなぞるがだけの写真となってしまうのだろう。写真を撮る方々がよう言われる、人の写真をよく見ること、とはつまりはそういうことなんだと思った。己のドタマに響く唄を聴かずしてなにを聴くというのか。写真が撮れない、とおろつく人はきっとかつて確かに聴いていたはずの己の唄を忘れてしまっているのだと思う。

そもそもおれは写真を撮っていながら写真を観ることの楽しさが一切皆目理解出来ない時期がすこぶる長期にわたっていたので、独自解釈ながらもこうして理解できたように思えたことはまったく喜ばしいカンジ。イェー。ド・ラッピー。ばかっ。しかしそれにしても、写真について「あっ、な〜る」という多大なる考察を得るのはおれの場合写真からでなく、小説でもなく、映画でもなく、運動でもなく、不思議なことに音楽についての言葉からなのだ。音楽以外でも受けることは受けるけれども深く「あっ、な〜る」とは来ない。もしかしたら写真をぱしゃりんこパシャリンコ波写凛子しているみんなも、自分から最も遠くあって、でも興味の尽きぬものを判ろうとして足掻いて追い求めてみれば、たとえそれが生涯得られぬものだとしてもそれまで培ってきたものと予想外の結びつきを見せて、ちぃっとばかし、なんかこう、ひゃっ、って世界が広がるんじゃないかと思う。それとも写真の根源と音楽の根源というものはじつに似通っているのかもしらんね。


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