ことばとこたまてばこ DiaryINDEX|past|will
或る寒い日の朝方に丁度切れてしまった灯油。寒がりやの父親は家の長ということを良いことにまだ陽も昇りきらぬ薄暗い部屋で眠る少年に「起きろ。灯油が切れた。買ってこい」と怒鳴って命令をします。少年は昨晩夜遅くまで勉学に励んでいたためほんの数時間しか眠っていませんのでなかなか眼を覚ましません。度重なる命令に背き続ける少年に激怒した父親は殴る蹴る目潰しの暴行で少年を起こします。母親はそばでその一部始終を見ていたにも関わらず少年に対して一向に無関心であまつさえ父親に「たくましいあんたってとってもすてきすてきすてき」などと欲情します。少年、家を飛び出して灯油を買い求めにガソリンスタンドへと駆けてゆきます。こんなことすっかり日常となっていますがそれでもやっぱりとても悲しい情感に全身を包まれて涙も出しつくした無表情の少年。1.8リットルの灯油が詰まった重たい赤いポリタンクを両手で持ち上げてえっちらおっちらと家へ向かう途中、何千何万というおびただしい数のクリップがアスファルトにちらばっているのを見つけました。そのクリップはオレンジ色で、いま覗いたばかりの朝の陽光に照らされ、真冬の清浄な空気を通してぎらぎらと熱をもつ色となっています。それはとても美しい光景でした。少年はわけもなく激しく震えそうになる心を「これはいけない、とてもいけない」と深く恥じ入って押しとどめ、冷静を保とうとします。ですが、どうしても、それでもやっぱり震えるのです。心を押し隠して透明なからっけつを保つ術に長けてしまっていた少年は、到底抑えきれぬ心の震えというものが自らの胸の内に疑いようもなくしかと力強く芽生えたことに驚いています。それはまるで一国の主にしか持ち得ぬ、豪奢なたったひとつの王冠の輝きすら凌駕しました。少年は吸い込まれたように無数のクリップの中へと歩みます。どこまでもクリップを踏みしめていっても尽きることがありません。その中に埋もれるようにしてトランプのカードが落ちているのを見つけました。それはダイヤのエースでした。少年は鼻水をすすってカードを拾います。このようにして心を震わせられたクリップの中にあったこの一枚のカード。少年はそこに何かしら運命的なものをどうしたって感じられずにいませんでした。白の中にただぽつりとあるひとつの赤いダイヤを見つめます。見つめます。見つめます。それは絶対的な凝視でした。すると、いつしかひとつのダイヤがよっつのダイヤに分裂し、色も赤から桜色へと変わっていました。よっつの桜色のダイヤは、そのまま薄く、淡く、とろけるように、カードの白のなかに消えてゆきました。瞬間、少年のほんの傍らを激しい勢いでバスが駆け抜けていきました。ほんの数センチ違っていれば少年は撥ねられていたことでしょう。バスのたてた強い風が未だ少年の前髪をなぶっている、ほんの瞬間に、少年は生きるということ、死ぬということがすべてわかったように感じました。そして思いました。やっぱり、やっぱり、やっぱり、やっぱりそうなんだ、やっぱりそうだ。ぼくは死にたいなんてほんとうには思っていない。少年の情感はこのときにかろうじて息を吹き返しました。死にたいと思うことは生きたいことだと思ったり、生きたいということは死にたいことだと思ったりなどという面倒臭いこと以前に、ただただ生きたいと、ただただまだ今は死にたくないと思うこと。その情感がonへと切り替えられたのです。なんだかどうにもこうにもウキウキブギウギな抑えられぬ歓喜。とりあえずいまは、ちょっとだけ、その歓喜に身を任せて歌を歌っちゃいます。「だめだ、だめだ、だめだね、だめだよ、それはとってもNGよ。そんなことしちゃいけない、いけない、いけないね、いけないよ、それはとってもNGよ!えーぬじー、えーぬーじー、えっぬっじっ!!」久しぶりに少年は笑いました。この心地よさ、少しでも長くありたいとペンギンのように、トテチテタ、トテチテタ、ゆっくりと歩きます。家まであと数メートルというところで灯油のおつりを貰い忘れていたことに気づきます。がめつい父親のこと、おつりがないということでまた怒ることでしょう。でももはやそんなことどうでも良い、と少年は真実思えたのです。少年の家への決別がここでより確固たるものとなりました。雪が降ります。雪すらも祝福してくれているかのように思えてならない少年はもはや敵無しです。家が目に入りました。玄関に黒い人影が仁王立ちしているのがわかります。「何をやっているッ!早くここへこいっ。一体何時間かかっているんだッ。お前、灯油はどうした。何処にあるッ!」雷雨のごとき激しき罵声。それでも少年、毅然と。「うるせえ、馬鹿野郎ッ」少年の家の隣家で流れているテレビの天気予報によると今夜は雪も止み、雲も晴れ、鮮やかな満月を見ることができるそうです。
陽
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