ことばとこたまてばこ
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2008年04月01日(火) 写真について思うきれぎれ

あなたはわたしの多面性のうちの一面しか見えてない。
君は僕の多面性のうちの一面しか見えてない。
おまはんはわちきの多面性の一面しか見えてない。
おめえはおれの多面性のうちの一面しか見えてない。
個は我の多面性の一面しか見えてない。
貴様は俺様の多面性の一面しか見えてない。


写真に関係性がそのまま見えるとすれば。


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たとえば内弁慶(家の中ではいばりちらすが、外では意気地のないこと。また、そのさまや、そういう人。)の子が、外で撮った写真と家の中だけで撮った写真。おそらくは外で撮ったものは人の眼や意見を恐れるあまりどこかで見たような画一的な写真となるに比べて家の中だけで撮ったものには傲慢も過ぎる暴虐が含まれていると思う。そして、後者のほうが危うく、あまりにもおもしろい写真になると思う。善し悪しはともあれ、やっぱり自分やほかの誰かどちらにせよ切り裂かぬ対象のない写真は、いっときの反響は別にして、長く残りにくいのだと思う。 写真とはその人の覚悟そのものなのだと、つくづく、思う。そしてマナー・モラル・常識といったものを知り抜いていないと、その覚悟を効果的に見せられないというところに、先代の写真家たちが口をすっぱくして言い続けている「常識」という正体が見える。おめえさんなかなか良いことゆうてるやんと思てたらなあんだ、自分の観たい世界のためかあ、なあーんだおめえさんけっこう傲慢やーん、でもそこがステキさね、ってことだと、つまりはそういうことじゃないかと思っている。思う思う思うの思うばかり。


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あなたにとっての夜の底がよどむと、たとえ香ばしく味わい深く、愛の極みとも言えるはずのまばゆい光がどんなにあろうとも何も撮れなくなるze.


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おっぱいとへそとこしのくびれがなんともおぼろげににんげんの顔の造形を喚起させられるから、をんなのはだかはだからとてもいい。うつくしい。美ン美ンする。


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記憶が記録してくれるわけではない。

あたりまえすぎてそのことを忘れていたおれにふるえるぜ。

その震えがカメラに伝わって、ははは、ぶれぶれぶれぶれ。

これが、迷い、ってやつさね。


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モノクロでただ白と黒と灰色しかないはずなのにどうしても、どうしても、鮮やかに、溢れる色がまざまざと読めるモノクロ写真。

カラーで色彩情報は多量にあるはずなのに、ある一種のモノローグが浮きぼりとなっている、白と黒と灰しかないがごとく情報の徹底的に省かれたカラー写真。


長く残る写真にはこういった傾向があるように思う。


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さいきんのおんなの写真はとても良いと思う。
おっそろしく愛するものしかみていない。
また見る側としてもそれがなんとなくわかるから、安心して、そのひとの「愛」を見ていられる。
さいきんのおとこの写真はとてもむつかしいと思う。
おっそろしく小器用でなんでも撮れちゃっている。荒木経惟の影響が見えるなあ。
見る側としては、あまりにも器用すぎて、平気で鼻糞をほじくりながら見れてしまう。
これがだめでもほかのものがとれるんでしょう、と。
恥ずかしげもなくね、と。


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被写体と握手するにあたって「おれはおめえを愛してる」という偽りならざる気持ちを信じさせるためにも体温は熱いくらいがいい。低体温のひとなら熱くなるまで握り続けるくらいがいい。写真を撮るのに言葉なんかに頼るんじゃねえ!


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おそろしく魂震えのする風景は世界のどこかにあるはずだ。


そしてそのどこかはあまりにも目の前だと思えてならなくて。


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