せらび
c'est la vie
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みぃ


2005年01月25日(火) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、〆

こうして自分の身の回りの持ち物について彼是と書いてきて、ふと気付いたのだが、そういえばワタシの娯楽の品といえば、九インチのテレビデオにノートブックコンピューター、それから小さなトランジスタラジオくらいなものである。

以前は、CDとテープやラジオが聞ける中型の機械(所謂「ラジカセ」)を持っていたのだが、どの道安っぽい音には違いないし、それならばラップトップに付いているCDプレイヤーで充分だろうと思うようになったので、売っ払ってしまったのだ。

これでもその昔は、一応長いこと音楽教育も受けたし、課外活動でも楽器に触れる生活をしていたのだから、音には五月蠅い筈である。離れてから何年も経ってしまった今でも、耳だけは衰えていないだろうという事で、「違いが分かる女」などと自負している(これでコーヒーの宣伝を思い浮かべた読者の皆さんは、こんなワタシと同世代)。

しかし恐らく、バックパックで長期の旅に出掛けるようになって以来だろう。持ち物の軽量化と平行して、音にも拘らなくなった。また、折角遠くまで出掛けて来たのだから、自分のいつもの世界のだけでなく違った世界の音を、自分の耳で聞きたい、とも思うようになった。


(…とここまで書きながら、そういえばワタシったら、人生の半分は音楽の手習いを受けていたのだったと気付く。何でもそうだけれど、ひとたび始めたものを途中で止めては無駄になってしまうのだから、事を始める時はよくよく考えないといけないと、今更ながら思う。)

(そして今やっている事を途中で投げたら、またしても大きな無駄をひとつこしらえる事になるのだなと、しみじみ思う。)


まあそういう訳だから、ワタシは普段街を歩きながら音楽を聴く、という事が無い。それは実際危険でもあるし、また街の音を聞くのや知らない人と声を掛け合ったりするのが楽しみでもあるからである。

また余程の事が無い限り、部屋で音楽を掛けっ放し、というような事も無い。仕事が捗らないで苛々するからとか、いいワインを買って来たからとか、いいオトコを連れ込んだからとか、そういう何かしらの事情があれば別である。

尤も、朝はラジオを掛けて起きる事になっているので、確かに音楽も聴くのだけれど、しかしこれは起きたような起きないような、何とも中途半端な中で流れている音楽なので、何を聞いたか覚えていない事が多い。こんな事では、折角の音楽に対して、失礼というものではある。

しかしこれはひょっとすると、ここ数年のワタシの生活が余りに荒んでいた所為もあるかと思う。時々野外のクラシックや友人のジャズギグを聞きに行っていた頃もあったのに、何時の間にかワタシの暮らしはすっかり味気ない物になってしまって、そんな愉しみからも遠のいてしまったようである。



ところで此処まで書いてきて、ワタシは何故こんなに気合を入れてこんな事を書き連ねているのだろう、とふと思う。

ワタシが所有物を整理して片付けたり減らしたりしようとする時は、特に引越し前という時を除いて、人生に疲れていたり、もうこんな生活から足を洗いたいとかしがらみから解き放たれたいとかいうように、ある意味心理的に切羽詰っている事が多い。

確かにここ数日のワタシは、旅に出る事や身の回りの物を整理する事ばかり考えて居るけれど、現実にはそれどころで無くて、さっさと片付けなければならない仕事に追われている身である。こんな逃避行為に現を抜かしている場合では無いというのに、この有様である。こんな生活は何時まで続くのだろう。


しかしこうして見てくるとつくづく思うのだけれど、何でも物事に執着すると、途端にしがらみが増えていくような気がする。ワタシの場合は、切羽詰った時に、自分の過去の不安や執着が形を変えた「物たち」と決別したくなるのだろう。

つまり、それらの大元の問題である不安や執着が、まさに手の届く目の前に、歴然と在る。それを真っ向から見せ付けられて、日々それらを眺めているうちに、過去の自分の嫌なところ、情けないところなど、見るに堪えなくなるのだろう。

しがらみがまだ心地良い頃、まだそれを必要としている頃は、自分の身が引き離されるような感覚があるから、それを処分しようなどとは夢にも思わない。しかしひとたびそれが心理的にお役御免となると、つまりそのしがらみ事項に執着心が無くなると、途端に只のゴミまたは他愛も無い「抜け殻」のように見えてくるのである。


「シンプルライフ」は、その殆どが心理的成長と緊密に関わりあっていると思われる。こうして己の心の状態を振り返って見てくると、他人があれやこれやと物を溜め込んでいるのを見ても、それがその人の心の状態、不安を示す目安であるという事が良く分かる。

つまり、何処其処というブランドやメーカーの何々という品を持つか持たないかだの、どの品を幾つ持つのが良いだの、そういった表面的な問題では無く、何故それらの品が自分にとって必要なのか、何故それらをその数なりそのブランドからなり持っていたいのか、という内面の分析をしていくうち、それはそういった数々の物品による「自己武装行為」であるに過ぎないという認識に至る、という話である。

だから例えば、真面目に修行に励んでいる坊さんの所有物が途轍もなく少ないのを見ると、それだけ煩悩だとか物による自己武装だとかの必要が無い、人生に熟練し心の安定した人物という事が伺えるのである。



…尤も、今の時代には随分「生臭坊主」が増えていると見え、そんなのに彼是と説教を喰らったりした日には、不愉快極まりないものである。

ワタシはこの街で同世代のそういう生臭坊主に二人ばかし出会ったけれど、本当にお前程度の人間から説教を喰らう筋合いは無いのだよと、余程言ってやろうかと思った程である。


また話が脇道へ逸れそうなので、今日のところは是にて〆。


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