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2005年02月12日(土) |
『アンタ、笑ろたらココにえくぼができんねんなぁ』/「なにわバタフライ」舞台感想 |
…急遽、「SHOCK」を観劇することになりました。 というのも、当初観るはずだったお友達のAさんが突然検査入院されることになってしまい、その代役として、私に白羽の矢が当ったのでした。
「SHOCK」を観ることになった…という事だけでしたら、完璧に諦めていたことだけに両手を上げて喜ぶ所なんですが、代役になったいきさつがいきさつなだけに非常に複雑な気分です。
Aさんの分まで楽しんでくるつもりですが…お大事にしてくださいm(_ _)m
「なにわバタフライ」感想
すっかり忘れていたけれど、三谷さん脚本の舞台はあまり感想を書くことがないということを思い出した。
だって、口で説明できないほど面白いから(笑) (反対に言えば、私が美味く説明できない…大汗)
最後の最後まで、細部に渡って計算し尽くされた脚本は、こっちが“ぐう”の音を言わせぬほどロジカルで、ある種『本格』ミステリに通じているのだと思う。
しかも、今回は一人舞台で、セットは舞台楽屋。 基本的には「取材に来た記者にミヤコ蝶々が半生を語る」というシチュエーションだけれども、主演の戸田恵子女史以外に舞台に出演するのはマリンバを筆頭にしたパーカッションの「音」しかない。
だからといって、戸田女史はただ単に「ミヤコ蝶々という人間の半生」を淡々と話すわけでもなく、パーカッションはただ単なる「BGM」に成り下がりは決してしなかった。
「楽屋」だったその場所は、彼女の一言で一瞬にして「喫茶店」になり「大衆演劇舞台上」になり「不倫相手との密会場所」になったりした。 勿論小道具も同じ。「姿鏡」が「ベッド」になり、「人形」は「髪飾り」に、「衣装のかかったラック」は「のれんのかかった扉」となる。
ピンスポットライトは、ある時は「お父ちゃん」になり「師匠」になり、「ぼん」と「兄やん」、「ぼくちゃん」とさまざまな彼女の相手役になっていた。
一方パーカッションの音は、ある時は彼女へのツッコミだったり、彼女の心の転換だったり、揺れだったりと完全に「もう一人の出演者+α」だったと思う。何故なら、ある時は天の警鐘でさえもあったりしたから…。
しかしそれが不自然だったかというと全く違い、反対に、なかった方がいっそ不気味だと思うほどそれら全てが何の違和感もなく当然のように存在していたのだ。 (そして、私はピンスポットの「お父ちゃん」に、何度か泣かされた…。)
それはつまり、演者だけでなく脚本や演出の力量も多大ものがなければ成立しなかったことなのだと思う。
こちらの想像力に頼る以上のロジカルな説得力を持たせなければ、演者がどれほど上手に演じたとしても空々しくなるだけだろう。それを補って余りある見事さに、いっそ、うなるのを忘れてしまったほどだった。
そして、ラストのカタルシス。 確かにステロタイプなオチであったことは否めない。けれども、今まで積み上げたものが足元から崩れていく…文字通りの「崩壊」であったことも間違いない。
絶妙な間でやって来る“弛緩と緊張”の「天丼」も含めて。
「意外な犯人ではなかった」けれど「見事に不意をつかれた犯行だった」。
ミステリ風にいえば、私の感想はこんな感じだろうか?
一方、戸田恵子女史も素晴らしい。
私は、関西人で、お笑いは物心ついた頃から大好きだったれども“ミヤコ蝶々”という人物のことをそれほど知っているわけではない。たまのたまに、バラエティの番組に出ては一言二言残していく“どうやら、ものすごい芸人さん”としての認識しかなかった。
ある批評で、「この舞台を見ながら、どうしても故・ミヤコ蝶々の影がちらつき、彼女と比較してしまい、純粋に楽しめなかった」というものがあったのだけれども、そういう経緯があったから、私は比較することもなく、ただ純粋に彼女の生に感情移入できたのだと思う。
そして、彼女が「時折微妙になる関西弁」も良かったのかもしれない。
戸田女史は名古屋出身。ネイティブな関西弁は話せないので、兵庫県出身の生瀬勝久氏に“方言指導”をしてもらったというエピソードは宣伝文句になったほど。
けれど、やはり完全にネイティブになりきれてはいない。時折、彼女の発音を聞きながら自分の中で発音をやり直すこともしばしあった。 そのギャップが、より一層“ミヤコ蝶々”という『実在の人物だった』という事柄を忘れさせてくれたように思う。実際はこうだった…ということを忘れさせてくれ、充分に彼女に感情移入をすることができたのだと思う。
そして、舞台人であると同時に彼女は一流の「声優」であることは思い出させてくれた。
彼女が話す物語は、ミヤコ蝶々が8つで、父親に「芸」を稽古をつけてもらっている所から始まり、60を越えた所にまでいきつく。その要所要所を微妙な配分で声を使い分けていた。
その声の使い分けこそが、場面転換だったことも少なくない。
16歳だった少女が声を変えたその一瞬で、それから何十年も時代が登ってしまう。反対もある。一言で何十年も時代は遡る。それがとても小気味良い。
勿論、彼女の良さはそれだけでない。 彼女の目線の一つ表情の一つで、目には見えない「誰か」の感情が分かってしまうのにとても驚き、上でも書いたように、ピンスポットやパーカッションのセッションを含め、最後には一人舞台を観たような気さえしなかったほどだった。
脚本・演出・出演者と、最後には最強のとり合わせだと思わずにはいられない出来の作品だった。
三谷作品としては、今までのような爆発するみたいな“笑い”はない。けれど、あんなに壮絶な人生を見せられ、最後の“カタルシス”を味わったのにかかわらず、劇場を後にした頃に『どこか幸せな気分になる』のは、今までの三谷作品とそれほど変わらなかった。
本当に観て良かった作品だったと思う。
そして、最後にこれはただの戯言。 ピンスポットの“お父ちゃん”の大きさは、どこか「目玉の親父」を彷彿させて一人で忍び笑い。…だって、私にとって戸田女史は「鬼太郎」なんですもの(笑)
…これだから、三谷作品はやめられないのよね…(笑)
My追加
ここは
「ふわふわ。り」様の素材を使用させて頂いています。
「つんづつっづ占い」はじめました。
KinKiの二人と彼等が演じたドラマキャラの占いです。
ネタ・シャレ・気分転換にでもどうぞv
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