Rei's column
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2005年06月11日(土) 怜のつぶやき

最近ね。つくづく幸せを感じることがあるんですよ。

あ、でもちょびっと前はなんだかわからないプレッシャーとストレスで
軽く鬱のほうにベクトルが向いていたんですがね@笑


なんとゆーか、年寄りっぽい発言が多くて恐縮なんですけど
若い時ってなんかこういう充足感や幸せ感をしみじみ感じることが無かったな、と。

いつでも喉が渇いていて止まらなくて
いい瞬間ほど確実に終わりがくる予感とその孤独感から逃れられずにいた記憶があります。
苦しくて満ち足りなくていつも感覚が研ぎ澄まされていて。

それはそれで刹那的な異常なエネルギーの放出というか華はあったと思いますが
おかげさまで私をとりまく物事すべてが短命でしたね@汗
ばっと咲いて、粉々に砕け散るといいますか
ダメになるならいっそ粉々にしてしまわなければ気がすまない、とでもいいますか・・


この遊びを始めてから自分はずいぶん変化したと思います。

どうにもならないものの距離を縮めようとしてやっきになるというか
「取りに走る」ということがなくなりました。

自分が楽しみたいという気持ちをちょっと捨てて
相手を楽しませようという気持ちに立ち戻れば
世の中は案外スムーズだったりもしています。

しかも楽しませる、とは何かしてあげたり提供することだ、とずっと思い込んできましたが
それは逆だったりもする。
むしろ自分が「してあげることが楽しい」という感覚でしているにすぎない行為を
相手の為にしているのだとカン違いしていたり。

あえて相手に小さな無理をさせてみる。
それが本当の楽しみの提供。ひとつ上の上級な楽しみ。

・・モチロン、「心地よい」「無理」ですよ?

その無理加減の分量は多すぎてもダメ、少なすぎてもダメ・・・


あ、そういえば車の燃調をとる(コンピュータの設定値をいじって燃料の濃さを調整する)時も
「多すぎてもダメ、少なすぎてもダメ」です@笑

多すぎると燃料が濃くて燃焼不良を起こしてブスブスいうし
少なすぎるとこれまたエンジンがパーになる。


人との距離感や無理感にも絶妙なバランスを取る・・・
遠すぎてもダメ、近すぎてもダメ。
この感覚がわかるのにずいぶんと遠回りがすぎたような気がしています。


そして昔は「制約」を激しく否定しました。
自由でありたいという願望が強くて「制約」や「規制」を嫌悪する。

でも最近は制約があるからこその楽しさ、対比するものは密接に繋がり影響しあっているのだとそう感じます。

あえて自分でルールを作る。
「制約」を設定してみる。・・そのほうが自由であるより数倍も楽しいということ。

その制約の設定値も、多すぎてもダメ、少なすぎてもダメ。


たったこれだけのことが感覚でしっかり掴めるのに30ん年@笑

でも、この理論を自分のモノに出来たおかげで
私の人生そのものが飛躍的に変わったと思います。


その絶妙な設定値をはじき出すためには
相手をよく「知る」ことが必要不可欠です。

「知る」とは目で見ることではなく感覚で感じることが必要なのではないかと。

見た目に騙されてわかった気でいたら何一つホントのところは見えてこない。


知る→試す、知る→試す、知る→試す、

その蓄積はイコール自分のノウハウ。


SMは一夜にしてならず、なのでした@笑





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