ゴーパル・バラダム短編集『いとしい人たち』 シンガポール随一のインド系作家、という帯にひかれて借りて読む。ただし、シンガポールの文学なんてまるで知らないし、華人社会のインド人に関心があったわけでもない。 10篇の短編が収められる。玉もあれば石もある。巻頭の「インタビュー」、英国人老将校が収容所での日本人将校との思い出を語る。日本人像をインド系シンガポール人が英国人将校の目を通して描くあたり、へぇ〜。しかも、インタビューをするのは、欧亜混血のシンガポール人という設定。しかしそれがどんな存在なのか想像することさえ難しい。 「十二月のバラ」、脳卒中で寝たきりの老人が白檀の香に誘われ、人生のすべてをいっきに甦らせようとするところ素敵。タイトルは人生の最後の一花ってこと?介護に来ているのはフィリピーナか。 「生きている記憶」、少年と老人のちょっとミステリアスな話。実際、英国植民地の記憶は華人にどう受け止められているのだろう? 「から元気」、共産ゲリラの活動がさかんな1950年代、治安部隊の大尉が主人公。ゲリラに転じたかつての同志、若い妻と幼い子、仲間の裏切りなどがストーリーを作る。 器用な作家であることはわかるのだが、読んでいるほうは、背景の事情に通じていないので、読みながらも隔靴掻痒。シンガポール人なら説明されずともわかること、感じられることが、こちとら、注を読んでもさっぱりである。 シンガポールがどこにあるのか知っているし、英国植民地から独立した華人社会であることも知っている。実は行ったこともあるのだが、その地の短編となるとこんなに実感が伴わないものであることが不思議。 そこで思うのが、明治以降怒涛のように流入した西洋文学である。優れた作品は背景なんか別にどうでもよくて、即、本質に到達できるのだろうか?それとも誤解に誤解を重ねても、本質に揺らぎはないのか?戦前は殆どの人が西洋事情については疎かったと思うのだが、あれほどの作品群が抵抗なく翻訳されて読まれたのはどうしてなんだろう?
|