立っち、して タッチ!
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それは悲しいというよりは、辛いニュースだった。
息子の恩師が末期癌で入院しておられるということ。
A先生がこの地区の中学校に転任して来られたのは
今から十三年ほど前くらいだったと思う。、
先生は、この小さな町の中学校に、ちょっとした
旋風を巻き起こした。
A先生率いる中学校卓球部が、全国大会出場というレベルにまで、
強く成長するのに、そんなに長い時間はかからなかった。
三年間先生に卓球を教わったという意味では、第一期生にあたる
息子達の年は、団体戦で大阪府下三位という成績に終わり
念願の近畿大会出場を果たすことはできなかった。
しかし、その後、後輩達は大阪大会、近畿大会と勝ち進み
何度も全国大会に出場するようになった。
でも私にとっては、そういう事実よりも、何よりも大事なことは
その三年間が息子にとって、とても充実した日々だったということ。
彼が中学校に入学して卓球部を選んだ時、
「絶対に無理。きっと長続きしないで辞めてしまうだろう」
と、正直思った。
A先生の噂をいろいろ聞き及んでいた。
先生が卓球部の顧問に就任されるや否や、それまで存在していた
卓球部は男女ともほとんど全員辞めてしまい、ほぼ壊滅状態に
なってしまったということ。
もと卓球部だった先輩のお母様達が、A先生のことを、
ケチョンケチョンに腐していたのを聞いていた私は、
A先生は、とにかく、こわい、キツイ、物凄い先生だ、
という先入観しか持っていなかった。
しかも息子は、小学校時代の運動会では、徒競走は常にビリケツ、
低学年の時には、貸した消しゴムを「返して」とも言えなかった。
そんな、運動神経も鈍く、気の弱い息子が
あの悪評高い(?)A先生のもとで、やっていける筈はないと思った。
しかし、息子は病気で学校を欠席した日以外は、
一度も卓球部を休まなかった。早朝練習に遅刻したこともなかった。
入部して少したった頃「A先生って、コワイやろ?」と言ってみた。
日頃、単語しか喋らないような息子が
「僕は、今まで一度もそう思ったことはない」と
妙に(?)まともな日本語で、キッパリと答えた。
予想以上の息子の頑張りが嬉しくて、試合の応援に行ったこともあった。
私の耳に入るA先生の評判は、相変わらずいろいろだった。
先生とケンカしてクラブを辞めてしまう生徒も多かった。
でも私にとって、A先生は「息子の恩師」だ。
それ以外のどんな言葉も見付からない。
なぜなら、親の目からどう見ても、あの運動神経の鈍かった子を
決して見捨てなかったから。
息子の「卓球が上手くなりたい」とい気持ちを、
ずっと育み続けて下さったから。
高校生になっても、ラケットを持って中学校の卓球部に出入りし、
大学生になっても帰省した折に、顔を出していた息子も
ここ何年間は中学校に足を向けることはなかった。
きっと今でも御活躍されているのだろうと信じていた。
A先生が病に倒れ、久しく入院されているということを
意外にも、結婚して東京にいる娘からのメールで知った。
ミクシーとかいう中の掲示板で、A先生に関する情報が
書き込まれていたとのこと。
先週の土曜日、名古屋から急きょ帰省した息子は、
中学時代のクラブの仲間と三人でA先生のお見舞いに行った。
先生は自ら病状を語られたそうだ。
病院へ行くのがイヤで痛みをずっと我慢していたこと、
とうとう病院に来た時には、すでに癌はステージ4の段階で
転移もしてしまっていたこと、今の状態は、医者も驚くほど
長く生きているのだ、ギネス級なのだと
初めて見舞いに来た生徒に怒ってしまったこと、
それ以来「お見舞いに行くと、先生に怒られる」という噂が
広まったのか、パタッと誰も来なくなったこと、
先生はしんどそうだった、
しんどいけど、見舞いに来た生徒に何か喋らなくては・・・と
無理して喋ってくれてるみたいだった、
そう息子達は言っていた。
今の私にあるのは、「ありがとうございました」という言葉だけ。