2004年08月17日(火) |
あたたかな光/物事を前向きに考えるということ |
きのう、
送り火を、マンションの屋上から眺めた。
「法」という字を形作る火の、ひとつひとつが、
ちゃんとくっきり見えるくらいに近くで。
皆、思い思いにビールやらチューハイやらを入れたグラスを片手にもって、
おお、とか、なかなかいいもんだねぇ、などと言いながら見る。
送り火だから、お盆の間にこの世に帰ってきていたご先祖様を、
またあの世まで、無事に送り届けるための「儀式」なわけだけれど、
そういうのは「しみったれている」と思っていた若者の心をも、
「いいねえ」と思わせる素敵な眺めだった。
反対に、送り火を背にして街の中心部を眺めると、
あちこちから焚かれるフラッシュの光が、ぴかりぴかりと白く光っていた。
送り火のあたたかいオレンジ色とは対照的に、人工的な白い光。
でもそれさえも、物珍しく、何か神秘的な光景に映る夜だった。
※
そしてそんな夜の中で、こんな風に思う。
人それぞれには、コンプレックスというものがあり、
何もかもに自信のある人などいないんだなぁ、と。
自信がなくても、堂々として見える人というのは、
自分の中のいい部分を磨き、他者との比較をできるだけ避けている、
ということなのだろうなと思う。
ものの見方の問題だろうか?
悲観的にならずに、前を向いていたいと思う。
自分自身に対しても、周囲の人に対しても、
美点、というものがちゃんとあって、
それぞれに「人」としてかわいらしく、
「人」としてあたたかい存在であることを、認められたらなぁと思う。
冷たく言い放つ言葉よりも、暖かく包む言葉を多く用いて。
そうできたら、何よりもすばらしいと思う。
「私なんて」「僕なんて」と思っている人に、
そうではないんだということ、そう思う必要なんてないんだということを、
どこかから耳元でささやく声になりたいと思う。
全ての人が万能で善人であるはずなどないのだから、
悲観的になる必要なんてないし、
落ち込んだり、迷ったり、自分はだめな奴だなぁと思っても、
またぐっと前を向きなおして、それでも大丈夫と思って欲しい。
性格のやさしい人ほど、悲観的になりやすい。
でもそれでは、宝のもちぐされだと、そう思う。
※
結局、昨夜も12時をまわってから帰途に着いた。
私の夏バテはまだまだ続きそうだ。
明日もまた、飲みに行く約束をしている。
とりあえず、今夜はゆっくり眠ろう。
本当は、オリンピックをもっとゆっくり見たいのだけれど。
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ああ、もう、夕方です。
外は雨。
秋がひたひたと、微かに近づいています。
ゴザンスでの800字小説、第1稿を書き上げました。
もう少し推敲して、それから投稿です。
ひとつは書いてみたものの、まだまだだなあと思う。
あともうひとつくらい、テンションの異なる作品を書きたい。
テンションの、高めのやつ。
私の書く物語って、テンション低いよなぁ。。。。。
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過去に投稿したものは、ここで読めます。
コロマガジン