けろよんの日記
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2004年08月07日(土) おとうちゃんあの電車に乗ってたらええのになぁ


ひーばーちゃんちにこなみを連れて遊びに行きました。

ひーばーちゃん(以下祖母とする)は空襲を直接体験していませんが、
大阪市内にあった家と荷物の半分は焼けてしまったそうですが、
半分は疎開先である祖母の実家にあったため、アルバム等は残っています。
#そういえば、父の子供の頃のアルバムも無事だな。

ただ、疎開先で2度機銃掃射に狙われたことがあるそうです。
田と道の間の窪み?に逃げ込み事なきを得たそうです。
今でも何か大きな災害や事故があるたび、機銃掃射に狙われた後は
世の中なんにも怖いもんなんかないと言います。
#近くにいた(他所の)牛は犠牲になったそうです。
#何故か四肢を踏ん張ったままだったらしい。
#その後解体場に運ばれお肉になったそうです。

数珠繋ぎにどんどん思い出が蘇ってきたらしく、
あちらこちらに話が飛びつつ色々話してくれました。
今更ながら当時の祖母は今の私とほぼ同年代。
銃後の苦労がしみじみ身に沁みました。

終戦間際に祖父が召集されたこと(当時40歳前後、3児の父で乙種でした。)
それ以前より覚悟を決めており、出征の際のお赤飯を炊くために
配給のあずきを少しずつ溜めておいたけれどどうしてもお米が手に入らず
知合いの市会議員の人を通じて入手してもらい何とかお赤飯を炊いたこと。

祖父が外地に出る前(結果韓国の済州島で終戦を迎えたそうです。)
毛糸の下履きを作り、缶詰を融通し実弟と実妹に届けてもらうように
頼んだけれど、結局祖父には会えず荷物も届かずじまいだったとのこと。

5歳の娘(母)が電車が走るのを見ると
「あの電車におとうちゃんのってたらええのになぁ」と呟いていたこと。
#祖父はその後無事帰ってきました。軍隊で上官に殴られたのが原因で
#しばらく耳が不自由だったそうです。後で治ったらしいけど。

しめくくりは「ほんまに戦争は物も焼けるし、人も仰山死ぬしちっとも
ええことなんかないわ。戦争なんかもう二度としたらあかん」と。
話をしている私達の横でにこにこしながら遊んでいる娘を見ながら
本当に自分の娘には
「おとうちゃんあの電車になってたらええのになぁ」とは
言わせたくないなぁと思いました。

「さとうきび畑の唄」に触発され、所属する働く母の会では
身内の戦争体験について語るというツリーが作成されています。
上記の祖母の話に下記を追加して投稿しました。

父と祖母は昭和20年7月9日から10日にかけての和歌山の空襲にあっています。
以下は亡くなった祖母から小学生の頃聞いた話。

当時、祖父は出征中、曾祖母と叔父は疎開中ということで
祖母と9歳の父だけが市内中心部にある家に残っていたそうです。
夜半空襲警報があり、気が付くと辺り一面は燃え上がっている、
家のすぐ近くにある内堀川という川に逃げようとしたけれど、周りにいた人が
「川はあかん、山や、山の方に逃げるんや」といってくれたので
山の方に逃げたそうです。
 結果それは大正解で祖母と父が逃げようとした川では沢山の人が
犠牲になられたそうです。
今も中橋という橋のたもとに小さなお堂があります。
#中学生の頃毎日横を通って通学していましたが、川自体も本当に
#狭いものです。

また和歌山城周辺(特に現在の汀公園という辺り)では特に被害が酷く、
戦災犠牲者の大半がここで亡くなったそうです。
#余談ですが私が小学生の頃、汀公園の慰霊塔に心霊現象が起こった!
#ということで全国ネットのワイドショーなどで取り上げられ
#菩薩さまが涙を流した。とか。
#学校中がその話題になったことがあります。
#多分祖母の話もこの頃聞いたような気がします。

父はその頃の話については口が重く殆ど聞いたことがありません。
「空襲の次の日、自宅の焼け跡に戻ると
 そこら中にパカンと口を空けた黒焦げの死体が転がっており、
 口の中に金歯が見えたりした。可愛がってくれた近所の小父さんも
 焼け跡で死体になっていた。」とは母の口伝手で聞きました。

母は5歳と更に幼く、疎開先にいたため直接空襲にはあっていません。
「戦争」というほどの記憶はないそうです。


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