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Jacarandaの日記 DiaryINDEX|past|will
※ (追記6/11) 記事の一部を修正しました。 今日6月10日で、江東区にある都立第五福竜丸展示館が開館50周年を迎えた。 1954年の「第五福竜丸事件」は、日本の歴史だけでなく、 冷戦期の核軍縮の歴史においても大きな転換点となった出来事である。 当時「冷戦時代」の米ソ関係という緊迫したバックグラウンドから、事件の発生、 そして、 その後の国連を中心とした核軍縮条約の結実までを、時系列で整理してみた。 🔷事件における歴史的背景🔷 (1)1950年代前半の米ソ関係: 核軍拡競争の激化 事件の背景には、アメリカとソ連(現・ロシア)による猛烈な 水爆開発競争があった。 1949年: ソ連が初の原爆実験に成功し、アメリカの核独占が崩壊。 1952年: アメリカが世界初の水爆実験(アイビー作戦)に成功。 1953年: ソ連も水爆実験(RDS-6)に成功。 1954年当時: 両国は「相手より強力な兵器を持たねばならない」 という「抑止力論(恐怖の均衡)」に支配され、 核実験をエスカレートさせていた。 (2) 1954年:第五福竜丸事件の発生 このような一触即発の状況下で、事件は起きた。 ▪3月1日: アメリカが太平洋のビキニ環礁で、極秘の水爆実験 「キャッスル・ブラボー」を実施。 予測の2倍以上の威力(広島型原爆の約1,000倍)だったため、 設定された危険水域の外側にも大量の放射性降下物(死の灰)が拡散。 ▪同日: 周辺海域で操業中だった日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が、この「死の灰」を浴びて被曝。 ▪3月14日: 帰港後、乗組員の急性放射線症状が判明し、 日本国内は大パニックに。 ▪9月23日: 無線長だった久保山愛吉さんが 「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」との言葉を残し死去。 🔷歴史的影響🔷 1954年当時は、米ソ冷戦の真っただ中という世界情勢の時。 アメリカは、アイゼンハワー大統領を中心に、共産主義封じ込め政策を推進しており、ソ連との核開発競争を進めていた。 一方、ソ連も、1953年にスターリンが死去し、フルシチョフが実権を握り始めたころだった。同様に、アメリカに対抗して核兵器開発を加速していっていた。 そして、この事件により日本は、広島・長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」と見做され、原子爆弾と水素爆弾の両方の兵器による原子力災害(被爆と被曝)を経験した国となった。 事件をきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が急速に高まり、翌1955年には第1回原水爆禁止世界大会が開催された。 また、世界中の科学者も危機感を強め、翌年の「ラッセル=アインシュタイン宣言」へとつながっていく。 (3)1950年代後半〜1960年代:国連と核軍縮条約の進展 第五福竜丸事件や世界的な世論の批判を受け、 米ソも「このままでは地球が滅びる」と危機感を抱き始める。 舞台は国連へと移り、具体的な条約が結ばれていった。 🔷 国連の対応及び条約(時系列)🔷 1963年: 部分的核実験禁止条約(PTBT) ▪内容: 大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止。 (ただし、地下実験は容認) 事件から9年後、ついに最初の大きな規制が生まれる。 1962年の「キューバ危機」で核戦争の一歩手前まで行った米ソが、 対話に舵を切った。 ▪意義: 第五福竜丸事件のように「死の灰」を地球上に 撒き散らす実験は禁止された。 ただし、ソ連やアメリカの思惑により「地下実験」 だけは認められるという抜け穴があった。 1968年: 核兵器不拡散条約(NPT) 国連総会で採択。1970年に発効。 現代の核軍縮の土台となる条約。 ▪内容:米・ソ・英・仏・中の5カ国だけに核保有を認め、 それ以外の国への拡散を禁止。その代わり、保有国には核軍縮のための誠実な交渉義務(第6条)を課した。 1972年〜: 戦略兵器制限交渉(SALT I / SALT II) 米ソが直接、保有する核ミサイルの「数」に上限を設ける交渉を始めた。 ( 国連が舞台というよりは米ソ二国間であるが、国連の理念に沿った動き。) 1996年: 包括的核実験禁止条約(CTBT) 冷戦終結後、国連総会で採択。 ▪内容: PTBTで残されていた「地下実験」も含め、 あらゆる空間での核実験を禁止するもの。 ▪現状: 発効には常任理事国であるアメリカや中国、インド、パキスタン、北朝鮮など特定の国々の批准が必要であるが、 2026年現在も一部の国が批准していないため、正式には発効していない。 ただし、国際的な規範として機能している。 2021年: 核兵器禁止条約(TPNW) 歴史的転換点となった条約。 ▪内容: 核兵器の保有、使用、威嚇、開発などを 全面的に違法とする初めての条約 ▪意義: 非保有国やNGOが主導し、国連総会で採択。 米、ロシアなどの核保有国や、日本のような核の傘に頼る国は 参加していない。 しかし、核兵器を「非人道的な悪」と明確に定義した点で、 第五福竜丸事件から続く反核運動のひとつの到達点 と言える。 🔷 まとめ 🔷 1954年の米ソ水爆開発競争の犠牲となった「第五福竜丸事件」は、一国の悲劇にとどまらず、「放射能による地球規模の環境汚染」という恐怖を世界に突きつけた。 これが足がかりとなり、国連を通じて「大気圏内での実験禁止(1963年)」から「核兵器そのものの違法化(2021年)」へと、数十年の歳月をかけて国際法が整備されていくことになったのである。 ❖ 第五福竜丸被曝事件と核軍縮の流れ ❖ 1954年 第五福竜丸被曝事件 日本や世界で反核運動が高まるきっかけとなった。 1954年 米ソの核開発競争激化 冷戦下で核開発が進んだ。 1963年 部分的核実験禁止条約(PTBT) 大気圏内などでの核実験を禁止した。 1968年 核兵器不拡散条約(NPT) 核保有国の増加を防ぐ国際体制の基礎となった。 1996年 包括的核実験禁止条約(CTBT) あらゆる核実験の禁止を目指した。 2017年 核兵器禁止条約(TPNW) 核兵器そのものの廃絶を目指した。 《 流れのまとめ 》 第五福竜丸被曝事件 → 世界的な反核世論の高まり → 部分的核実験禁止条約 → 核拡散防止条約 → 核兵器禁止条約
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