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2006年10月27日(金) db7

8.

「おうカイ、おまえも飲め!」
 食堂の扉をくぐると、逞しい腕が横合いからカイの首をぐっと引き寄せた。
「いってぇ! っていうか離せよ、酒臭いな!」
 首に巻きついたリーグの腕を引き剥がそうと、カイはもがく。

 ならず者の溜まり場は、地下に作られている。
 王族が使用している正式な食堂ではなく、秘密裏につくられた酒場のような場所だ。
 レジスタンス専用の出入り口も、地下からゼイドの郊外へ抜けられるように掘られている。
 トゥオネラ城は、表向き聖都を追われた姫が孤独を癒すために楽師を呼ぶ程度の寂れた城なのだ。どこから見ても芸人に見えない男どもが大勢、表から堂々と出入りするわけにはいかないのである。
「ようこそ、竜殺しの巣へ」
 転々と置かれた丸テーブルのひとつで、トールが苦笑しながら杯を掲げてみせる。
 なんとかリーグの腕をすり抜けて、カイは隻眼の楽師の隣に座った。
「ようやく決心がついたみたいだね。リーグも随分喜んでいる」
「ああ、やっとね」
 いつものように大酒を飲んで騒いでいるだけに見えるリーグを眺めながら、カイは軽く肩をすくめる。
「しかし、一月近く悩んでいたきみがどうして急に正式に仲間になろうと決めたのかな。正直なところ僕はもう、無理なんじゃないかと思っていたんだけれど」
「姫に、全部聞いたんだ」
 酔っ払いたちの喧騒の只中だから、普通に話してもよく聞こえるわけではない。それだというのにカイは、トールにぐっと顔をよせて、声をひそめた。
 トールは残された右目を大きく瞠り、それから口元をゆるめた。
「そうか」
「姫はみんなに見せてるのか?」
 さらにぐっと顔を寄せて、カイはトールに問う。楽師は言葉をのみこめない様子でいぶかしげな顔をする。
「何を?」
「……その、だから」
 恥ずかしくなって、カイは顔をそむける。じわじわと首のあたりから赤くなってゆくカイの顔を見て、察しのよい楽師は彼の言わんとしていることに気がついた。
「きみは、随分とあの方に気に入られたようだな」
 若干の驚きをふくんだ声だった。
「真実を知るものはすくない。隠しているわけではないが―――分かるだろう。彼女は皇位継承権を持っている。難しい問題だ」
 大した学のないカイにも分かる。こんなスキャンダルはない。
「この組織に名を連ねる者の中には、彼女の気高さや血筋を仰ぐ者もいる。資金源だと割り切る者も。元々リーグについてきたものもいる」
「リーグについてきた?」
「ああ、ドラゴンバスターは元々、彼が作ったものなんだよ」
 カイは思わず体をねじって喧騒を振り返る。人々の輪の中で、大口を開けて笑っている男が見えた。
 目線に気づいたリーグが、酒瓶を片手にテーブルに近づいてくる。どすんとカイの隣に腰を下ろし、身を乗り出してくる。
「コソコソと人の悪口か?」
 口の端を引き上げて、からかうような笑みを浮かべてみせる。
「どんなに絡んできたって無駄だぜ。俺、酔っ払いの扱いは親父で慣れてるからな」
 カイはぷいっと大男から顔を背けた。
 豪快な男の豪快な酔いっぷりを、この一月で嫌というほど見せ付けられてきた。
 暴れたりはせず、終始上機嫌なのだから、彼は良い酔っ払いであろう。が、同じ話を延々くりかえすのは厄介だ。
 話がループを始めるとこちらも延々と生返事をくりかえしていたので、細かい内容までは覚えていないが、大体が妻と娘の自慢話だったような気がする。
「親父さんはどうしてる」
 リーグは、手にした酒瓶をカイのグラスの上で傾けた。
「……死んだよ。酒飲んで、いい気分で冬に道端に転がってれば、夢見てるうちに逝っちまえるだろ」
 並々と満たされたグラスを、とりあえずカイは口元にはこぶ。未だに味はよく分からない。
「根っからの鉱山夫だったんだ。山が好きで仕事が好きだった。あのひとは、鉱山がなきゃ生きていけなかったんだ。魚を陸にあげちまうのと一緒で」
 カイは父親を憎むことが出来ずにいる。
 昔から酒好きで、鬱屈がたまると物にあたることもあったが、情に厚く仕事に熱心で、母に弱かった。
 母に似たエスリンを、溺愛していた。だからカイは、リーグが娘の自慢をするたびに、父のことを思い出す。仲間たちの溜まり場である酒場に父を迎えにゆくと、大抵エスリンの自慢話をしていたからだ。
「親にはな、覚悟があるんだ」
 酒瓶の口を持って少し横に振り、中身がないのを確かめてから、リーグは酒瓶をテーブルの奥へ押しやった。
「子どもが受ける苦しみを全部引き受けて、身代わりになってやる覚悟だ。実際にはそんなことできやしないが、俺はそう思ってた。女房の分も娘の分も、盾になってやる覚悟はあったんだぜ。俺は馬鹿だが、図体と腕っ節だけはあったからな。こう―――」
 リーグは腕を伸ばし、掌で何かをつかむような動作をする。
「握るとな、簡単にくるっとひとまわりするほっそい腕でな。俺の嫁になるってずっと言ってた。抱き上げると、剣より軽くてな」
 見えぬ何かを握る無骨な手を、リーグは夢を見るような瞳で見上げた。カイも、大きな掌がつくる円を、その空白を、見つめた。
 目じりが下がったその瞳を、カイはよく覚えている。父のものと一緒だった。
 その夢見るような微笑が急に、歪んだ。
「俺が代わってやりたい―――!」
 低く声を絞りだし、リーグは空を掴む拳をきつく握り締めた。
 小刻みに震える拳をテーブルに叩きつける。
 酒場は一瞬にして、水をうったように静まり返った。
 歯軋りが聞こえるほど唇を噛んだリーグの瞳に、カイは再びあの熱を見た。
 拳をたたきつけた勢いで、グラスの酒が波立つ。
「ちくしょう……!」
 獣のように低く、男は唸った。


            *


「リーグは元々傭兵ギルドではそこそこ名の知れた男でね」
 夜も更け、男どもが引き上げた酒場は、がらんと寒々しい。
 照明はテーブルの上のランプひとつ。トールは机に突っ伏した大男に毛布をかけてやりながら、口を開いた。
「戦が長引いて民衆が疲弊しはじめた頃から、仲間とともに軍の野営地や補給路を襲ったりしていたんだ」
 カイの目の前ではハーブティが湯気を上げている。アルコールなどよりは、こちらのほうが合っているような気がする。
「元々それほど本気ではなかったようだ。義賊を気取って愉しんでいたと本人も言っていたよ。それが裏目に出たんだね」
 トールは隣の椅子を引いた。
「軍は本気で彼らを潰しにかかった。彼らの心を折るために、本人たちではなく彼らの村の女子供を虐殺したのさ」
 あのあと、畜生と何度も絞り出して、大男は机に突っ伏してしまった。
「それからリーグは鬼になったよ。兵士と見れば襲い掛かる獣のようになった。村の生き残りとともに、本格的に軍の野営地を襲うようになった。それがこの組織の起源だ」
「だからあのとき」
 カイは左頬を親指でこする。
「あいつ、あんな顔して俺のこと殴ったんだな」
 時折リーグの瞳に宿る剣呑な光のわけが、ようやく分かったような気がした。
 大人の分別を持ち合わせているかと思えば、仲間のために玉砕覚悟で特攻をかけようとする。
 そのアンバランスさの出所。
 いまだ血を流す傷口の、膿んだ熱なのだ。
「ひとりひとり、違った理由や傷がある。この城にいるものは皆、ひとつの大義のもとに動いているように見えるが、彼には彼の、君には君の理由がある。だけど、ともに道を掻き分けるには大義が必要なんだ。辛いことから目も背けられるしね」
 美しい旗があれば、気高い理想を掲げていれば、天を仰いでいられる。
 足元に広がる泥沼や、後方に残した残骸を見下ろさなくてすむ。
「多くの人間が仰ぐ大義を求めているように、僕には思える。それだけ目をそむけてしまいたい何かがあちこちに転がっているってことなんだろう。姫を聖女扱いする者、金づると割り切る者もそうなんだろうな。だから君のように姫の本心を欲しがるものはあんまりいないんだ。姫も望んで聖女を演じているふしもあるけどね。だけど時には彼のように」
 楽師は寝息を立てる大男を顎で示す。
「吐き出したいときもある。だから姫はきっと、真っ向から向かってきた君に心を開いたんだろう」
「俺はただ、うまい話を信じられなくなってるだけだ。へそ曲がりなんだよ」
「心根が曲がった人間は、真っ向勝負はしないものだよ」
「回り道なんて器用な真似、できないんだよ」
 急に気恥ずかしくなって、カイはふいっと顔を背けた。
 分かりやすい反応に、トールは苦笑する。
「さて、僕はもう寝るよ。明日は聖都まで出向かなければならないんだ」
「聖都に?」
 カイは立ち上がるトールを仰ぐ。
「情報を集めておきたい。もうすぐエバート祭だからね。街の様子を探ってみようと思うんだ。情報の伝手もないわけではないから」
「祭? こんな時期に?」
「こんな時期だから、だろうね。民が疲弊しているからこそ、祭で目くらましをしようとしているのさ」
「情報集めて、何かするのか?」
「祭には皇帝が姿を現すかもしれない」
「ヴォーデンが」
 思わずカイは息を呑む。
「近頃彼は公の場にぱったりと姿を見せなくなった。実はもう死んでいるんじゃないかと囁かれているほどだ。エバート祭はイドゥナ教の大祭だし、彼には最高位の神官としてのつとめがある。現れなければおかしい」
「姫は一応家族だし、生きてるか死んでるかぐらい分からないのか?」
「最近はヴァルデル皇子ですら面会を許されないと聞く」
 ヴァルデルは、フレイヤの弟で今年で十二になる。
 離れ離れになっている姉を慕って、こまめに手紙をよこすのだと聞いたことがあった。
 皇帝は、第一位の継承権をもつこの皇子を溺愛しているらしいのだが、その皇子も面会を許されないというのは、おかしな話である。
「エバート祭の最終日には、洗礼の儀がある。儀式は神殿で行われて民衆は入ることは出来ないが、例年であれば皇帝も迎えに顔を見せるはずだ」
「洗礼?」
「ああ、聖都特有の儀式だから知らなくても無理はないか。ラインの乙女だよ」
 がらんとした酒場に、椅子が倒れる音が響き渡る。
「カイ」
 突然立ち上がったカイを、トールは気遣わしげに見る。
 机に両手をたたきつけた体勢のまま、カイはきつく唇を噛んだ。
「戦争したいなら、やりたい奴だけ連れて行けばいいんだ!」

―――ありがとう、おにいちゃん。

 空のまぶしさを尋ねたあのとき。エスリンはもう知っていたのだ。自分がラインの乙女に選ばれたということを。

―――わたしはだいじょうぶ。おにいちゃんも、おとうさんもおかあさんも、村のみんなもいるから。だから、だいじょうぶだよ。

 あのとき。
 エスリンが何度も「だいじょうぶ」と繰り返した意味に気づいていたら。
 もう遅い。
 和やかな生活にあたためられて、忘れかけていた戦うわけをようやく、思い出した。
「俺は絶対に、皇帝を許さない……!」


如月冴子 |MAIL

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