mortals note
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2.
一寸先も見えない。 空気はじっとりとしめって、肌にまとわりついてくるようだ。 右手を壁について、まっすぐに進む。一本道だと教えられた。 カイは何も処刑を見るためにゼイドの街へ立ち寄ったわけではない。 フィヤラルの祠を目指し、ブリガンディア北端にある村から東へと旅を続けてきたのだ。 この先の見えない道は、祠の地下へつづいているのだという。
フィヤラルの祠は、イドゥナ教の聖地のひとつであり、四方をトゥオニ湖といううつくしい湖に囲まれている。 湖の周囲には高い塀がめぐらされ、唯一の関所は、絶えず兵士が見張っている。 特に今は敏感になっていることだろう。猫の子一匹も通さぬ構えであるに違いない。なぜならばフィヤラルの祠には、伝説の聖剣ドラゴンバスターが祀られているからだ。 皇帝がドラゴンオーブを使っているのだとしたら、ドラゴンバスターは天敵であるのだ。長引く戦に内外からの不満も高まっている今、ドラゴンバスターを持ち出したいと願う人間は、ひとりふたりではない。 カイもそのひとりだ。 隠し通路があると教えてくれたのは、旅芸人の男だった。 帝国のありかたに疑問を持つ―――早い話がヴォーデンに叛意のあるものたちが集まる酒場で、ひときわ若いカイに近づいてきたのだった。 ドラゴンバスターが手に入るとしたらおまえはどうする、と。 得体の知れない旅芸人の話を頭から鵜呑みにするほど、カイは無垢ではない。罠でない可能性のほうが低いはずだ。それでもカイは、トゥオニ湖のほとりにあるゼイドの街へやってきた。 たとえ罠であったとしても、何もしないよりはマシだといえば聞こえはいいが、結局のところ。 どうでもよくなっていたのかもしれない。
カイはブリガンディア北端のちいさな村で生まれた。 父と母、妹との四人家族だった。妹エスリンは生まれつき目が見えなかったが素直でやさしい娘だった。 村の背後には鉱山があり、貴重な鉱石がとれることから、つつましいけれども穏やかな日々を送っていた。 すべて、侵攻が始まるまでの話である。 狭く暖かかった村には鉱脈を求めて兵士がなだれ込み、エスリンは―――連れ去られてしまった。 生まれつき目が見えぬことは、イドゥナの寵愛の証であるという。ラインの乙女と呼ばれる、神の言葉を伝える巫女に選ばれたのだった。 ブリガンディアはすべて、イドゥナの意思で動く。拒否権はなかった。 居並ぶ兵士達の手前、村人達はこぞってエスリンを褒め称え、有難がった。けれども誰もが、こっそりと泣いていた。 エスリンだけが、曇りのない笑顔だった。 辺境の村では手に入らないようなうつくしい衣服と宝石に飾られ、エスリンは聖都ブリガンダインへと連れて行かれ、そして。 ―――二度と戻ってはこなかった。 ラインの乙女は、神の代理人になる。戦時は、兵士を鼓舞するために戦場にも連れてゆかれるのだという。他国の人間にとって、強力な一神教の象徴たる巫女は、目立つ存在なのだとも聞く。 エスリンがどんな目に遭ったのか、想像するのも恐ろしかった。 巫女はイドゥナの御許へむかえられた、という報告が届けられる頃には、掘りつくされた鉱山はすっかりと枯渇し、戦に疲れた村人達は無口で陰気になり、母は病に倒れた。 やがて村人達は散り散りに村を離れ、カイたちも近くの町へと移り住んだが、母はまもなく帰らぬひととなった。 父も死んでしまった。 母を失ったあとすっかりと酒におぼれ、ある冬、酔っ払ったまま路上に転がり、そのまま二度と目覚めることがなかった。
じっとりとしめった壁をたどりながら、光の見えぬ道の先を見据える。 兵士が村になだれ込んできたその日から、カイの目の前は常に闇だ。この道のように。 多くを望んだわけではなかった。 大それた野望を抱いていたわけではなかった。 鉱山夫として働き、気立てのいい娘を貰って、足のあまりよくなかった父に楽をさせてあげたいと、その程度の望みだったのだ。 さまざまな職場を転々とし、時には盗みをはたらきながらひとりで暮らすようになって、もう三年になる。 何も知らぬ十四の少年は、もはやどこにもいなかった。 兵士の目をかいくぐって、反帝国組織に出入りをしていたこともある。摘発を受けて、半死半生で逃げ出したことも。 服で覆い隠した体には、いくつもの傷が刻まれている。 すべてを奪った帝国に、一矢を報いてやりたい気持ちはあるが、具体的に何をすればいいかなどわからなかった。 高々、辺境の村生まれの小僧だ。学もない。仲間もいない。一体何をすればいいのかわからない。 けれど、すべてを諦めてしまうわけには行かなかった。 幼い頃の、空の輝きを尋ねた妹の笑顔ばかりを思い出す。 遊び疲れて山から村へ駆け戻ってくると、やわらかい煙を上げている煙突。母親のひび割れた指、父のいびき。 決して、多くを望んだわけでは、なかったのだ。 目の前は闇で塗りつぶされている。 どこを目指していいのかわからない。 だからもう、どうでもよくなっていたのだ。 耳元でささやかれた希望が罠であろうと。 何も見えないのならば、指し示された道を歩くしかない。 だからカイは今、どこからかしずくの音が聞こえる古い道を歩いている。
―――生きては帰れないかもしれない、それでもいいか?
朽ち果てた井戸の場所を教えた後、旅芸人は人好きのする笑顔をふっと消して、言った。
―――生きて帰りたいところなんて、どこにもない。
間をおかずに返されたカイの答えに、旅芸人はしばらく黙っていた。 やがて小さくうなずいて、「そうか」と言った。 わずかに身を引いて、カイの前に道をあけた。 そしてカイは、光のない道を歩いている。
祠まで一本道。ことはうまく運びすぎている。危うい罠に自分から飛び込んでいるのだろうと、なんとなく思い当たってはいた。 口元がゆるむ。 だからなんだっていうんだ。 引き返す? 今から? 一体どこへ? 旅芸人に投げつけた言葉は決して虚勢ではない。 生きて帰りたい場所など、もうどこにもないのだった。
ひたすら足を前に運んでいると、やがて目の前がうっすらと明るくなった。 光が見えたわけではない。白い像が道を塞いでいたのだった。 半裸の女の像だった。 めずらしくもない、ラインの乙女をあらわすものだ。若くうつくしい女の石像。 胸の前でなにかを受け止めるかのように、両の掌を向かい合わせている。 カイは、ちょうど目の前あたりにあるその華奢な両手を、更に外側から押さえ込んだ。力を込めて内側に押すと、石像の腕がゆっくりと動き、やがて乙女の両手は祈るかのように組み合わされた。 かちりとどこかで音が聞こえた。 乙女は―――沈み始めた。 どういう仕組みなのか、カイにはまったくわからない。ただ、自分の背丈よりも高い石像がずるずると床に飲み込まれてゆくのを見守っていた。 どうどうと、頭からおしつぶすような音が迫ってきた。 乙女の頭を跨ぎこえて、カイは開かれた道の先へ足を踏み出し、よろけるように数歩進んでから、息を呑んだ。 壁を、水が流れていた。 どこから水を引き込んでいるものか、壁を伝って滝のように水が落ち、壁際にある溝に流れ込んでいる。 咽喉を目いっぱい反らして天井を仰ぐが、どのぐらいの高さにあるのか見当もつかない。ある部分から闇に飲まれてしまっている。 足元は、光っていた。 ちょうどくるぶしのあたりを照らすように、壁に石がはめ込まれている。それがうっすらと青い光を放っているのだった。 ―――夜光石か。 隣国アスガルドの西部で採れるという貴重な石だ。闇の中で光る。カイは学はないが、鉱山に抱かれて育った子である、石には多少詳しい。 一粒ひとつぶが目玉が飛び出るような値だというのに。これほどまで贅沢に使っているとは。 金はあるところにはあるもんなんだな、と呆れた。 広大な空間が及ぼす威圧感にも幾分か慣れ、カイはようやく周囲を見回した。 左手奥にぼんやりと浮かび上がる長方形。どうやらそれが、この空間への正規の入り口のようだった。 入り口のかたちに夜光石がはめこまれているらしい。扉はなく、長方形の奥は真っ暗だ。道が続いているのだろう。 そして、”正しい入り口”から、二本の光る線が伸びている。床に転々とはめ込まれた夜光石。道しるべのような輝きを目で追って。 部屋の中央に据えられた巨大な台座に行き着いた。 カイの背丈の裕に三倍はある。横っ腹から眺めると、三段の階段状に積み上げられた台座の、頂点は見えない。 しかし、これほどまでに広大な空間に、貴重な夜光石をこれでもかとちりばめ、湖から水を引き込むという工夫を凝らし。 “それ”以外の何をあそこに置くというのか。 フィヤラルの祠に祀られているのは、伝説の宝剣―――。 ぞっと全身が粟立った。その答えに至った瞬間、カイは弾かれたように駆け出していた。 正しい入り口の方へ回りこみ、夜光石が照らす二本の線の間に立ち。 正面から、台座を見上げた。 走ったのはほんの少しの距離だというのに、息が乱れた。口で大きく息をすると、奥歯が鳴った。体がふるえている。 祭壇には、側面から眺めたときには見えなかった細かい階段がついていた。夜光石のラインも階段にそって高みへと続いている。 どうどうと水が落ちる音が四方からカイを取り囲む。ほのかに光る無数の青い光がまるで、―――呼んでいるように見えた。 一歩、足が前に出た。 もう一歩。転がるようにまた一歩、そして。 カイは祭壇を駆け上った。 (ドラゴンバスターが) 手に入れば。 皇帝を突き動かす魔石を叩き壊すことができる。 そうすれば戦はきっと、終わる! ―――おにいちゃん、わたし大丈夫よ。 うつくしく着飾ったエスリンが、手探りでこちらの手を探り当て、しっかりと握った感触を何故か今、思い出した。
まろぶように最後の一段を踏み越え、カイは祭壇の高みに至った。 全身が心臓になったかのようだ。頭の内側も激しく脈打ち、視界がゆらぐ。 中央に台座が据えられている。子どもの寝台ほどの黒い石の板だ。 その台座に、一本の黒い剣が突きたてられている。 カイはおぼつかない足取りで近づいた。 これで戦が終わる。奇跡のつるぎだ。 じっとりと内側から吹きだす汗を感じながら、カイは柄に手をかけ、声をなくした。
剣は台座とひとつだった。
刺さっているのではなく、台座と剣がひとつの石から作られた彫刻。 我が目を疑い、幾度もまばたきを繰り返す。 まさかそんなはずはない。 これは伝説の宝剣だ、最後の切り札だ。 奇跡を起こし、長くつづく戦を終わらせるための……。 「やっぱり来たね。君なら来ると思っていた」 男の声が響き渡った。 背に刺さったその声に、カイはぎくしゃくと彫刻から手を離す。 肩越しに振り返ると、夜光石に彩られた正規の入り口から、ひとが歩み出てくるのが見えた。 身軽な旅装束に小型のハープを背負っている。雨風をしのぐためかしっかりと被ったフードには見覚えがあった。 「貴様……!」 からからに渇いた咽喉からようやく絞り出す。 カイに地下通路を教えた旅芸人だ。 弾丸のように祭壇を駆け下り、カイは旅芸人の胸倉を掴みあげる。 「騙しやがったな!」 ドラゴンバスターが手に入ると、そう言ったではないか。 すると、旅芸人はすこし困ったように笑った。 「ドラゴンバスターが手に入ったとして」 旅芸人の背後、闇に飲まれた通路の奥から、芯のある声が響いてきた。踵が石の床を打つ音が徐々に近づいてくる。 「それで本当に、戦が終わると思っているのか」 白い影が亡霊のように浮かび上がった。 頭からすっぽりと白いフードをかぶり、口元すらも布で覆い隠した人影が近づいてくる。 唯一外に出ている瞳が、真紅だった。 声からすれば女のようだが、背丈はカイよりもすこし低いぐらいで、女としては大柄に見える。 白装束の女―――と思しき人影―――に付き従うように、女剣士が控えていた。 傭兵のような軽装備ではあったが、黄金の髪は肩を滑り落ち、碧眼が油断なくカイを見据えている。気品と隙のなさは尋常ではない。その傍らにもう一人、こちらはいかにも傭兵といった体の男が立っている。この男もおそらく腕がたつ。 「ドラゴンバスターが一体、何の役に立つ」 白い塊が言った。 カイは旅芸人の胸倉を掴んだまま、赤い瞳を見据えた。 「ドラゴンバスターがあれば、オーブを壊せる、んだろ」 それで戦が終わるのではないのか。 白い女は笑った、ように見えた。 「無いものをどうやって壊すというんだ」 うまく言葉を飲み込めなかった。 全身から力が抜けて、旅芸人の胸倉を掴んでいた手がはずれる。 無い、とは何のことだ。 「ドラゴンバスターが手に入ったとて、壊すべきものがないのなら仕様がない」 「どういう……」 「”ドラゴンオーブなど何処にも無い”と言っているのだ」 眩暈がした。 力いっぱい頭を殴られたような心地だった。脳みそをかき回されて、うまく考えがまとまらない。 ドラゴンオーブがないということは、一体どういうことなんだ。 それではつじつまが合わなくなるじゃないか。 「ドラゴンバスターもドラゴンオーブも存在しない。ただの象徴だ。台座を見ただろう、形だけ祀ってあるに過ぎない」 「百年前にはあったんだろ! 隣のアスガルドのラッセルって領地で、領主の息子が―――!」 ドラゴンオーブを用いた内乱を、その奇跡の剣で収めたと聞く。 存在しないなんて、おかしいじゃないか。 存在しないんだったら、どうして。 カイは、白装束の女に向き直った。口元に笑いが浮かんでくる。 「嘘だろ」 意志の強い赤い瞳は、揺らがない。 「お前らグルになって俺を、騙そうとしてるんだろ。なあ!」 (ドラゴンオーブが無いなんて) ふつふつと湧き上がってきた怒りを抑えきれずに、カイは白装束の女に掴みかかった。背後で剣士ふたりが得物に手をかけるのを、女は片手で制す。 「お前が祭壇で見たものがすべてだ」 刻み付けるように、女が言った。 その声が、何かの糸を切った。 「ふざけんなよじゃあなんで! オーブがないならなんで! ヴォーデンは戦をやめないんだ!」 納得できない。 オーブがあれば、まだつじつまはあうじゃないか。 強大な魔力に魅入られてしまったと、諦めることができる。 理解が出来ないことで苦しめられているなんて、そんなこと。 納得できるはずないじゃないか! 「だったら俺達はなんで……」 目のふちが熱くなる。視界がぐにゃりとゆがんだ。 「なんでこんなふうに……」 村を蹂躙され、妹を奪われて。 母は臥せって、父は雪の降る路上に転がって。 自分だけではない。苦しみもがいているのは、決して自分だけではないのだ。 こみ上げた涙がひとすじ頬を伝って落ちる。涙に引きずられるように、カイはがっくりとうなだれた。 体が震えはじめる。いつの間にかカイは笑い出していた。 突然、すべてのことがどうしようもなく滑稽に思えた。馬鹿馬鹿しい。 何よりも、伝説に縋って這いずり回ってきた自分が、醜くあさましく、惨めだった。 「……殺さないのか?」 笑いとともに零れ落ちた。 「聖域に転がり込んだんだぞ。ドラゴンバスターを手に入れようとしたってことは、立派な反逆罪だろ。あんたたち、帝国軍の兵士じゃないのかよ。……もういいよ、どうだっていい。ドラゴンバスターがないなら、もうどうしたらいいかわからない。どうしたらエスリンの仇を取れるかなんてもうわかんねぇよ!」 咽喉が裂けるほど大声で叫び、カイは涙をふりはらうように顔を上げた。 突き飛ばすように白い女の胸倉から手を離し、両手を広げた。 「殺せよ!」 赤い瞳が、鈍い痛みをこらえるように眇められた。 「どうせ生きてたってしょうがな」 左頬に衝撃を受け、カイはそのまま後方に吹っ飛んだ。 口の中に鉄の味が広がり、殴られたらしいことに気づく。 「ガキが、簡単に死ぬとかぬかすんじゃねぇ!」 傭兵然とした男がいつのまにか、カイと白装束の間に割って入っている。体勢からして、カイはその男に殴られたのだろう。 口の端に滲んだ血を乱暴にぬぐい、カイは立ち上がる。刺し貫かんばかりに男を睨み据えた。 「何も知らないくせに!」 カイは吠えて、男に殴りかかった。 「……クソガキ!」 男の舌打ちを聞いたような気もしたが、すぐに何も分からなくなった。 腹部に強い衝撃を受けて、呼吸が出来なくなる。目の前が真っ白になり、カイはそのまま石畳に両膝をついて、前のめりに倒れた。
「どういたしますか」 女剣士が白装束に問うた。 男に腹部を殴られて気絶した、青年と呼ぶにはまだすこしあどけない男を見下ろす。 「連れて戻る。どの道を選ぶかは彼の自由だが、今はひとりでも人手が欲しい。ゆっくりと説明をするにはこの場所は不向きだ。リーグ、すまないが背負ってきてもらえるか」 「……すいません、頭に血がのぼっちまって」 カイを殴り倒した男は、気まずそうに女の赤い瞳から視線を逃がす。 筋骨隆々とした男がしゅんと肩を落としているのをしばらく眺めてから、白い衣のすそを翻し、女は歩き出す。女剣士が影のようにその背に従った。 「城まで連れてくるのだぞ」 叱りもしなければ慰めもしない。が、しばらく自分を見つめていた真紅の双眸が労わりの色を含んでいたことを、リーグはちゃんと分かっていた。 「お前がまさかこんなガキに目をつけるとはな」 カイの体を肩に担ぎ上げながら、リーグは旅装束の男を眺める。 旅芸人はかるく肩をすくめ、白装束と女剣士のあとを追った。
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