草原の満ち潮、豊穣の荒野
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89 戦闘人魚  6 幽霊と来訪者

ヴァグナー・ハウライトは幽霊だ。

彼はしばらく前に命を落とし、魂だけが己の命を奪った武器に残った。
魔獣と化さなかったほんの僅かな魂と心のかけら。

カノンの持つ銀の棍に幽霊は潜んでいた。
ヴァグナーのかつての助手、カノン。
彼は今死んだように眠っている。
幽霊はそれをじっと見下ろしてから呟いた。

『まだ来んなボケ』



「ギャーッ!!」

静まり返った瓦礫の街に少年の声が響く。

「うるさい!なんなの死にかけがいるってのに」

デライラがルーに怒鳴った。
ブルー達の前からカノンを抱えて退散したのはいいが
意識を戻さないカノンに途方に暮れていた。
カノンをはじめ、地上の人間に賭けるつもりでいたが
切り札に考えていた人間が死にかけている。

「ちくしょう、ブルー達に付くのはなんか気に入らないから寝返ってやったけど
これじゃどうしようもないわ。
アルファルドにも見つかるとまずいし。
ああもう、いっそ砂漠の国まで逃げようかしら」

「あ...あ...お姉さん」

「うるさいっデライラだって言ったじゃな...」


黒髪の南方女は少年の指差すものを見て黙った。

「あら...」


カノンが立っていた。
血の気の無い青白い顔で、銀棍を握りしめ立っていた。
幽鬼のような出で立ち。
流れる血は固まり始め、黒髪にこびりついている。


「優男に見えてしぶといわね..」

デライラはそう声をかけながら後ずさった。

.....違う。何かが違う。

カノンはゆらりと一歩踏み出すとルーを見下ろした。
薄い青の浄眼がギラと光って見え、少年は竦んだ。

「カ..カノンさん、大丈夫?」

ルーはそう笑いかけながらも引きつっている。
以前、話した時、カノンは親しみやすくこそなかったが
常に自分には同じ目線に屈んで話しかけていた。
そうでないときは謎めいてはいたが、穏やかな微笑みで接していた気がする。
こんな異様な圧迫感などなかった。

「あんた、怪我はもういいの?」

デライラは無意識にルーを自分の脇に引き寄せた。
カノンは二人より背丈があるが、いつもにまして大きく感じる何かがあった。

「!」

カノンが銀棍でデライラを打ち払った。
まるで邪魔な草木でも払うように。

「おねえさん!」

「逃げな、ルー、こいつ..おかしい...」

デライラはカノンを睨んで立とうとしたが出来なかった。
それどころか声をあげる事も。
ルーが躊躇いながらカノンから離れて行く足音を聞きながら彼女は凍り付いていた。

「ア....アルファルド....」

「よお、デライラ」

小太りの中年男がにこやかな顔で立っていた。

「最初から信用はしてなかったけどな」





「おねえさん!」




ルーがカノンから逃げながら振り返ったとき、そこにはもう誰もいなかった。
ただ目の前に黒髪の幽鬼が立っている。
ルーはその時、それがなんなのかはっきり悟った。

「なんでこいつが!!」


幽霊だけがカノンを見ていた。










その頃、黒眼鏡の酒屋、ナタクは街の入り口近くで唸っていた。

「こら、あかん」

若い神官をつかまえ結界を張らせながら、あちこち注意深く調べていたナタクは
滅多な事では外さない黒眼鏡を外した。

「この地形、水脈があの街道沿いの荒れ地と繋がっとる。
あのゴツい鬼はそれでこの街を選んだちうわけか」


ヒダルゴに祀られていたのは焔。
水、焔、風、土と神殿があったが、どこも地中で複雑な方陣が組み上げられ
各神殿の魔法や呪力が生活のエネルギーとして機能していた。
この街には水脈の姿で水が隣接していたのだ。

「ここをブチ壊せば地下水を溢れさせる事も...
守っとった神殿の連中、手ぇ抜きよったな。
全く近頃の役人共はロクな奴がおらんわ」


ナタクは眼鏡をかけ直すと空を睨んだ。
風が強く吹いている。しめった風。死人の匂いがはっきり伝わって来る。
潮風のような...いや血のそれだ。


「俺も世界の番人やで、くそったれ。やりたい放題やられてたまるかいな!」




街の中から風と共に誰かがやってくる。