草原の満ち潮、豊穣の荒野
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79 魔鳥    3 バケツの海 

赤茶けた砂地にぽつんと立つ古いカフェ。
傍にある街道とはまるで春と冬くらい空気の色が違っている。
冬というよりは冷たい水の底。

「一度抜いたらあとは退かんで」

白刃に映った青い男は、彼の警告を薄笑いで拒絶した。
ナタクは、鞘から大剣をゆっくり抜いていく。
鞘と刃の隙間から白い手のようなものがずるりと出た。
女性のようにも見える華奢な手と指。
それは青い男の頬を撫でるように這い上がり、額から頭頂部までぴたりと覆った。

「死ぬんはいっぺんでええやろ...」

ぐしゃり。
黒眼鏡の男の大剣から出た長く白い手は、青い男の頭を簡単に引きちぎり
生首は笑いながら砂地を転がった。

「屍の上で生きる気分はどうだね...」

ナタクは剣を鞘から完全に引き抜くと、喋る生首に突き刺した。
複数の叫び声を轟かせながら青い男の頭と胴体は、一瞬で風に散った。


「くそ、本体はブルー殿じゃなかったんか」


ナタクは大剣を素早く鞘に戻すとあたりを見回して首を振った。
古い建物はおろか街道と違う空気はそのまま澱んで存在している。
『主』はまだ健在ということか。

「ルーくんか...
あの子が俺の言うた事守っとるんなら、せつないなあ...」


彼は黒眼鏡をズリ上げると急いで街道へ引き返した。
誰もいなくなったそこには冷たい空気が波のように静かに流れている。
空だけが青い。
赤茶けた砂埃が古いカフェを覆うように吹き抜けていく。




グェプ!



青い空から黒点がゲップをしながら降りて来た。
黒点、黒い大鷲は地面に頭から落ち、転げ回った。
ばたばたと翼を地面に叩き付けながら、大鷲はゲロを吐いている。
何十回も繰り返しようやく吐き切ったのか、そのまま嘔吐物の上に倒れ込んだ。


「うげえ」

黒い羽の中から一本の足が出た。
倒れている大鷲の背中から唐突に飛び出した人間の足。
その足にはカノンが持っていた聖印がひっかかっている。
ばきべきと骨がきしむような音をたて転がり、鷲は立ち上がった。
その姿は、怪奇!4本足の鳥人間、とも言うべき奇怪なもの。


「ちくしょう、死ぬ程いてえ」


鳥人間はうずくまると何度か転げ回ってもう一度立ち上がった。
既に大鷲の姿はどこにもなく、そこにいるのは黒いフードのついたマントを
すっぽり被った男。
フードから長く青い髪がはみ出している。
青い瞳と頬に傷を持つ男はカフェを見て怒鳴った。


「くそったれ、もう少しなんとかならねえのかよ!」


人気の無いカフェにざわめきが戻る。
いつの間にか店の扉の前に似たような青い髪の男が立っていた。
同じ顔のふたりの青い男。
ひとりは静かに微笑んだ銀色に近い水色の髪。
もうひとりは黒いフードを頭から被りやたら下品な言葉ばかり叫んでいる。

うるさい方の男は地面の上をうろうろ歩いて何かを拾い集め始めた。
それは自分がさっき吐いたもの。
嘔吐物の中に固い石なのか種なのか固形物がいくつもあった。
彼はそれを拾い上げては、転がっていた古いバケツに放り込んでいる。


「水をくれ!」


黒フードの男が叫んだ。
カフェの扉が開いてよろよろと年老いた男が歩いて来る。
ぼろぼろの服に白髪、酔っぱらっているのか顔が赤い。
瓶に詰めた水を両手に抱え、彼は空を見上げ笑った。


「じいさん、いいからそいつを早く寄越してくれよ」


老人はよたよたおぼつかない足で地面を踏みしめた。
歯がほとんど抜け落ちた口で歌う歌は何がなんだかわからない。


「だから水寄越してから好きなだけ騒げ、っつの。
べろべろじいさん」


黒フードの男は諦めて自分から瓶を取りに行った。
瓶を受け取ろうとフードの男が老人に手を伸ばす。
老人はその手を握りしめようとして瓶を落としてしまった。

「あ」

溢れ出した水はあっという間に地面に吸い込まれて消えた。

「じいさん....また飲んでんな」

老人はうろたえ黒いフードの男に抱きつくと泣き出した。
青い男は苦笑いで老人の肩を叩く。


「いいよ、オレが取りに行けば良かったんだ。泣くこたねえよ」

「ほら、持って来たわよ」

老人の後ろから年配の女が現われ瓶を差し出した。

「リラおばさん」


老人は泣きながら笑い出し青い男のフードを払った。
長い髪がばさりと落ちる。ガラの悪そうな表情をした男。
年配の女はそっとバケツに瓶の水を注ぎ微笑んだ。


「ブルー、暖かいスープを用意してあるから」

「ありがとう。全く、じいさん相変わらず酒ばっかで参るよ」

「嬉しくて飲んでるだけマシよ」

「ま、そうだな」

ブルーは黒マントの上から尻をぼりぼり掻いて笑った。
大人になった海の少年の前にいる老人や女は、別れた頃と変わらない姿をしていた。
老人は何度も、ここは魔法の浜だと叫んでは笑った。
バケツの水がさざ波を立てる。
バケツに入った石は水の中でちかちかと発光を繰り返していた。
その度、カフェには人影が現われ、賑やかさを取り戻して行く。

静かな青い男はそれを眺めていた。
彼は少し離れた場所に立っている背の高い老人を特に見ていた。
長い白髪、長い白髭...
バケツの石が発光して現われた人々の中で、明らかに異質な存在感を持っている。
彼は人々を見つめ俯いていた。


「さあ、皆建物の中に入って。
まだここは未完成だから無理しないようにしてくれ。
もうすぐ波が来る。
それまでは絶対にここから出るな」

ブルーは石を拾い集めると全部バケツの水に沈めた。
人々は皆カフェに入り、賑やかな談笑が聞こえて来る。
ただひとり、隠れるように建物の外に立った背の高い老人を除いて。


「...どうしました?」


ブルーは白髪の老人に近付き丁寧な態度で話しかけた。


「風邪をひきます。建物に入った方がいい」

「ここで充分だ」

「....」


ブルーは困ったようにバケツを足元に置くと言った。


「あなたが何もかも背負う必要なんか何処にもない」


「オンディーン、お前は本当にそう思っているか?」


オンディーンと呼ばれたブルーは苦い表情で俯いた。
吐きながら嫌な記憶を脳裏から追い払おうとしていたのが
舞い戻って来る。


「お前は何故、人を喰った?」

「....」

「お前は何故母親に捨てられた?」

「....」

「お前は何故、生きられるかもわからない地上へ追いやられた?」

「......」


「お前は何故...」

「もういい!何も言わないでくれ」

老人の言葉をブルーが遮った。

「あんたに今更何か言ったところでどうなる?
皆死んでる。オレだって二度と海には戻れない。
魔法だかおとぎ話だか知らないが、
現実の中にいくらかマシな方法がありゃそいつを選ぶさ。
どうせオレも死んでるんだろうよ。
あんた達がコツコツ準備したもんがちったあ、いい目見させてくれるってんなら乗るさ」

ブルーはそう言うと建物の窓から覗いている赤ら顔の老人を見た。

「オレは今、少なくともあのじいさんを助けられる。
魔法の浜辺なんか信じちゃいなかったが、好きな話だったんだ」

「オンディーン、わし達はあまりにも...」

「いいからもう黙っててくれ!
オレはあのじいさんやあんたに会いたかったんだ。
あんたが何者だったかなんてオレは知らないからそれでいいだろ」

「オンディーン...」


ブルーは背の高い老人の前で膝を付くと深く頭を下げた。


「浜辺にはじめて立った時程、あなたを思い出した事はなかった。
地上の太陽を見た時程...」

ブルーは老人の手を取って握りしめた。

「オレは誰かに命令されて動いてるわけじゃない。
過去を取り返せるならなんだってやる」

老人は何も答えなかった。


「潮が満ちればここは本物になる。
そのためならオレは地獄に行ったっていい。
もうこれ以上地上でひとりはたくさんなんだ」

「あの子供はどうしている?」

ブルーが黙った。
彼は乱暴に老人の手を振り払うと黒いフードを被った。

「...やっぱり誰もオレの事なんて見ないんだな。
オレを覚えているのは死者だけだ」


ブルーは黒いマントを大きく翻すとそのまま踞り、骨をきしませ
大鷲に姿を変えた。
黒い魔鳥は一声、痛切な声をあげると空へ羽ばたいて消えた。



「オンディーン...」


老人は魔鳥の飛び去った後に銀細工の聖印を見つけ、拾い上げた。
赤い石が微かに光っている。
目を閉じて老人はそれを『見た』


かがり火。
灯りの向こうには銀髪で桜色のドレスを着た娘が笑っている。
遥か遠くまで草の波が広がる草原や小麦畑。
ブルーが地上で見た風景。
死んだ子供を抱いた母親の狂った歌声が響く。
微かに違う女の歌声が混じった。
何かの子守唄のような...

「エウジェニアなのか」

老人は銀細工の聖印をバケツの海に沈めた。
彼は建物に戻る気配もなく砂埃の舞い上がるそこには、古ぼけたバケツと
老人だけが立っていた。



一方、カフェのざわめきの中、ブルーと同じ顔の男が窓からそれを見ていた。
唯一ブルーとはっきり違った特徴は、彼の首にくっきりと切断されたような
傷跡がある事だった。
青い男は窓の外の老人を見て不気味に笑った。
地上に時間をかけて蒔いた種の結果に満足しながら呟いた。

「地獄はここなんだがね...」


死者のざわめきが漏れる街道沿いのカフェ。
ひとりの老人が墓守のように立っている。