草原の満ち潮、豊穣の荒野
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74 砂塵の荒野 4幽霊

黒髪の司祭カノンはルーが持たせた『お守り』を
持っていない事に気付いていた。
子供がうっかり落としてしまったのだ。
しかもその『子供』と今、目前にいる『子供』が
同一人物なのかさえわからない。

カノンは胸に手を当てた。
黒い詰め襟の司祭服の下にもうひとつのお守り、『聖印』が忍ばせてある。
ルーに渡したものとは似ても似つかないそれ。
あちこちひしゃげたようにへこんだ銀細工。
半分以上黒く煤けた中央の赤い小さな石が光り、辛うじてその護符が
有効であろう事が伺い知れる。


「何?」

ルーがぶっきらぼうに言った。
彼は自分が何かなくしている事など知りもしない。

「あの黒い女神殿は?」

「ああ、男つかまえてどっか行ったよ」

「じゃあ、彼女が戻るまで僕が見ているしかないだろう」

「もうなんでもいいよ。オレ眠くなったから寝る」


カノンの返事も待たずにルーはごろりと横になってしまった。
彼の前には順番に『神の使い』を参拝する人の列がまだ残っている。
汗まみれの神官があわててルーを起こそうとしたが立つ気は毛頭ない。
もう一昼夜に近い。
神官達は順番で交替しているが『神の使い』やカノンはろくに休憩もしていない。
もっともルーがする事はぼーっと立ってあちこち回る事だけだが。


「彼はまだ小さい。少し眠らせないと体を壊すのでは?」


さりげなくカノンが提案したが、年若い25前後の青年司祭の言う事など
誰も聞かなかった。
カノンの家系に高位聖職者がいる事など知る者は、こんな現場に出てこない。
数人がかりで神官達はルーを無理矢理立たせた。
特別な存在なのだから、と彼等はひたすらルーを賛美し持ち上げる。
傷を癒す奇跡の存在が休憩を取る事の方が、信頼性を落とすと言わんばかり。
とうとうルーが切れて口汚く罵ると走り出した。

カノンは自分の脇を走り抜けたルーを止めもせず、立ち上がった。
勿論つかまえるつもりは毛頭ない。
ただ、行方と動向を常に視野に置いておく為である。
どこかのんびり昼寝を決め込める場所さえ探せば爆睡するだろう。
あわてた神官達に、追いかけるから、と告げ
彼はルーをのんびり追った。

「やってられっかよ!おい!
朝から晩までバカみたいに突っ立ってなきゃなんねーのかよ」


喚きながらフラフラ走る子供。
捨て台詞はカラ元気。
朝から晩まで、というのは実際より少なく見積もった言い分で
ひたすら眠くて仕方が無い。
美女もどこかへ消え、拝まれるのにも飽きた。
彼等は自分を大事そうに拝むけれど
誰ひとりルーを見ているわけではなかった。
ひたすら己の願い事や様々な想いを吐き出し、勝手に満足して帰るのだ。
すべてが自分と無関係の場所で勝手に動いて行く。

ルーは人の群れをかき分け、足の間をフラつきながらもすり抜ける。
カノンの方はそうもいかない。
何度も失礼、とあちこちで謝りながら追ううちに距離が開いて来た。
ちらりとルーが振り返り尻を叩いて舌を出した。
どんなに疲れていてもこういう事だけは忘れない。
プライドの問題だ。

一方、カノンはそれを見ても黙殺した。
いちいち子供に腹を立てても始まらない。
だが、かすかないらつきがブルーに感じるものと
同じ事にも気付いていた。

やはりあの子は彼の.....




「やい、へっぽこ黒ノッポ」


遠くでルーが勝ち誇った声を投げつけている。
カノンはうんざりした顔で目の前の男をするりと躱した。


「何か言ったかい?」


驚く程すんなりと人ごみをすり抜けてきた追手は
あっさりルーの肩を掴んでいた。

「いててて!!!放せっ!なんだよ冗談だって!」

「君には選択肢がふたつある。
ひとつは僕の目の届く場所でおとなしく休憩する、もうひとつは...」

「ドコ行こうがオレの勝手...」

カノンがルーの顔を覗き込みにっこり笑った。

「実力行使で強制休憩、どちらか選びたまえ」

「...暴力反対」

ルーが弱々しく呟いた。


「よろしい。
僕は理由も無く暴力を振るったりしない。
だが必要であれば容赦しないから覚えておきなさい」

「....」

カノンは微笑んでいたが、前髪に隠されて見えない顔の半分が
ルーには、やたら凄みを持って見え、口ごたえすら引っ込んでしまった。

ヘコんでしまった子供の姿にカノンはある人物を思い出した。
過去、少年の日々、豪快な笑い声が脳裏に蘇る。


「真似なくていい部分はいいんだ....」





カノンはルーを人の少ない場に連れ出そうと促した。
自分の役目はルーの監視である。
現状に変化が起これば対応してナタクをサポートする。
ブルーの状況はよくわからないが、ルーを巻き込むのは避けなければ。
なんとしてでも。


「じゃあ、さっさと寝れるとこ行こうよ。
眠いんだよさっきから。
寝なけりゃ誰だってたまんねえだろ」

恐る恐るルーが要求した。
にこやかなこの人物は今イラついている。
逆らうのはやめておこう...

「僕もそう思うよ」

カノンがごく普通に答えた。


ルーはビビりながらカノンと歩き出した。
何人かの人間が二人に気付いて手を差し伸ばしてくる。
神殿の大々的なアナウンスはもはや、街中に知れ渡っていた。
カノンは丁寧ながらぴしりと移動中だ、とさばいて歩く。

「......」

ふてくされ顔のルーはそれをちらちら見ていた。
この黒髪の司祭は自分の味方なんだろうか?
どうしても思い出せない記憶にいら立ちながら、少なくともこの男は
休息くらい取らせてくれるのだ、と解釈する事にした。


ふたりの行く先は絶望的な人の波。
中には片足を引きずって追う事もままならず
目で悲痛な願いを訴える者もいた。
街の外れに向かう程、本当に切実な願いを持った者が目立つ。
カノンはいっそどこかの人家にルーを連れて行く事を考えた。
彼は素早く小さな角に滑り込むと一軒の民家に飛び込んだ。
祭りのまっただ中、多くの人家は開かれている。
怪しげな目的の輩でもなければ旅人や、未知の人間に飲み物を振る舞う家は多い。

「まあ、いらっしゃい」

花で飾られた玄関を素早くくぐり、扉を閉めた訪問者に年配の女が声をかけた。

「すみません、連れに何か飲み物と休む場所を少しばかりお貸し願えませんか」

カノンは丁寧に突然の訪問を詫びた。

「ああ、そこのソファにでもおかけ」

ルーはその言葉を聞いた瞬間ソファに飛び込んだ。
本当に疲れていたのだ。柔らかいクッションの弾力に彼は一瞬で眠り込んだ。

「失礼申し訳ありません。連れは丸一日眠っていないものですから...
お心使い深く感謝します。あなたに女神のご加護がありますように」

「あんたら、神殿の人かね」

年配の女が笑いながらルーに羽織っていたストールをかけた。
どうやら彼女はルーを知らないらしい。
カノンはほっとして、勧められた椅子に腰掛けた。


「寝たいんならベッドを、と言いたいとこだけどね、寝たきりの病人がいるから
ここで勘弁しておくれ」

「とんでもない。落ち着いた場所があるだけで充分です。
ご病人に迷惑がかからなければ良いのですが...」

カノンがあまり広くない室内の隅をちらりと見た。
ベッドに少女らしきお下げの金髪が見える。


「何やら街に神様のお使いとやらが来たそうだけど
とてもあの人だかりにあの子を連れて行く事なんか出来やしない。
私らは遠くで見ているだけだよ。
せめてこうやって旅人や訪問者をもてなせば
少しは神のご慈悲があるかもしれないし、気にしなさんな」

カノンは苦笑まじりにルーを見た。
この子がそうだと知らない相手にわざわざ言う事もない。
それに彼の能力は彼が使うのだ。
カノンがあれこれ言うわけにいかない。ルーが目覚めて感謝する意向があればそっと促せばいい。奇跡とはそういうものだ。


カノンはルーが目覚めるまで数時間ばかり、年配の女の世間話に付き合った。
暖かいお茶は丁寧に何度も煎れかえられた。
彼女は淡々と日々の苦労と娘の将来の不安を打ち明け、カノンは静かに聞いた。
別になんら解決法を答える事もなく、ひとり、娘を抱え夫に先立たれた寂しさや
いろんな些末な日常を聞き続けた。
おそらく吐き出す相手もそういないだろう。
彼女に代わる事は誰にも出来ない。
少なくともカノンのような奇跡を起こすわけでもない人間には。





やがてルーが目を覚ました。
室内で焼き上げられた菓子とお茶の香りにつられて。
彼はお茶と菓子を与えられ、黙って食べた。
甘い菓子とお茶にささやかな休息が心地よく、悪ガキはなかばうっとり食べ続けた。


「あんたら、またおいで」

「ありがと、おばさん」

カノンがさりげなくルーに声をかけた。

「あそこに眠っている子にもお礼を言いなさい。
病気で眠っているのに我々を休ませてくれたんだよ。
具合が悪いようだから静かにね」

「え?....ああ、そうなの」

ルーはぽかんとしたまま、奥のベッドに歩いていった。
金色のお下げが眩しい。

「あの...」

ルーがもじもじしながらベッドに手をかけたのと
カノンが浄眼を見開いたのは同時だった。


「!?」

そこにブルーが立っていた。
ルーを遮るように立ち、強ばった表情でカノンを見ているのは
見覚えのある、頬に傷を持った男。


「...ブルー殿?」

しかしルーはそれに気付く事もなく、ブルーの体を通り抜けた。

「ルー君、待て!」


カノンがルーを病人のベッドから引き離そうとしたが
既にルーは少女の肩に手を伸ばしていた。
金髪のお下げががくりと頭を倒し『影』が顔を覆って消えた。


静まり返った室内。
ルーは呆然としてカノンを見、母親は娘に飲ませる為に手にした
ミルクの大瓶を落とした。
硝子は砕け損ね、代わりに鈍い低い衝撃音が沈黙を叩き壊した。
真っ白な液体が波のように床に広がり
奇怪な染みを作りながら少女の頭の下で止まった。
彼女はぴくりとも動かない。

カノンはブルーの影が消えた辺りを睨んだ。
年配の女が半狂乱になって娘を抱き上げ、娘を呼び続けた。


「ルー君動くな!何も触るな!」

「え...」


金色のお下げは娘の若々しい輝きのまま。
しかしその顔や手、肌の色は血の気の欠片もない。
母親は握った腕や肩の冷たさに長い悲鳴をあげた。


カノンには何も視えなかった。
いや、幽霊のようにブルーの姿が現われた事を除けば。

「え?オレ...?」

ルーが数歩後ずさった。
カノンの浄眼に映るルーは以前と変わらない。
ただ、出来事は全て彼が少女に触れた時に起こったのだ。

「あの子、どうしたのさ?」

ルーはカノンや女の視線が自分に集中している事に狼狽した。
少女は彼の目にも生きて見えなかったし、カノンが触るな、と叫んだ意味を恐れた。

「オレ、知らない...」

ルーは己の両手を見て、そう繰り返した。
膝が微かに震え、彼が走り出すか否か迷っている事を知らせている。

「落ち着きなさい」

カノンがルーにそう声をかけた瞬間、ルーは駆け出した。


「オレ、何も知らな...」

そう叫んで駆け出した少年が向かった室内の扉。
カノンはすぐさま小さな鈴のような物を扉に投げつけた。

「ぎゃっ」

鈴が砕けた瞬間、焔が燃え上がり即座に消え、扉とその周辺に
魔法陣らしき文様が焼き付けられた。
ルーはその中に足を踏み入れた途端、叫んで倒れてしまった。
カノンは倒れた少年が気を失っているのを確認すると背後の親子を見た。
ベッドに横たわっているはずの娘が立ち上がり、反対に母親が倒れていた。

「...今度はこっちか」

「あははは!!」

娘は笑い出すとベッドの横の窓を突き破った。
砕け散る硝子の破片と、地面に飛び降りた娘のお下げが
陽光に幻の如くきらめいた。
カノンは、素早くその家の出入り口と、窓全てに何かを焼き付け娘を追った。
彼は追う距離をあっという間に縮めながら浄眼を邪眼に切り替えた。
あと少し視界に捉えれば....


娘は大通りの賑やかな場所に飛び込む寸前、その動きを封じられ倒れた。
しかしカノンが娘を確保する寸前、親切な通行人が彼女を抱き起こし
そのささやかなミスは水に投げ入れられた石の波紋となった。
祭りで賑わった人の波にあちこちで悲鳴が上がる。
娘も親切な通行人も既に何処かへ姿を消した。


カノンは『ヴァグナー』だったら確かに
彼女を決して外には出さなかっただろうと唇を噛むと
すぐさまルーが倒れている家に引き返した。

何もかもがカノンにとって大きすぎた。
魔物を排除する役割を本来、主とし、
ブルーを怯えさせた殺気すら一笑に付された。
決して気の弛みや奢りがあったわけでもない。
ただ、カノンが普通に生きる『人間』であっただけである。

彼は引き返しながらひたすら過去の記憶や、持てる知識の全てに思いを巡らせた。
今何をすべきか、それだけを彼は考え続けた。


「...核心は何処だ...」


街はこれまでにない人々の渦で熱気に満ち溢れたまま。