草原の満ち潮、豊穣の荒野
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「いいか、人間ってのはな、ひとりで生きてくもんだ」
いつもの宿。ブルーはこれまでにない真顔で言った。 小さいルーはベッドに腰掛けてにこにこ笑っている。
「つまりだ。オレも当然ひとりだし、これからもそうだ。 お前といつまでも一緒にいるわけにいかない。 オレはもうすぐこの街から出て行く。お前はここに残れ」
ルーがにこにこ笑って頷いた。
「...意味わかってるか?」
就寝時刻を控え欠伸を連発している子供。 読み書きを覚え始めたとはいえ、素で何を考えているのか 見当がつかないところがある。
「なあ。お前がどっから来たのか、素性が何なのか教えてくれねえと オレは明日あたりこわいおじさんにだな...」
「おい!ブルー!!客だ!!」
ブルーは顔の痣をなでながらがくりと頭を垂れた。
「...もう来やがったのか。くそったれめ」
二階の安宿に誰かが上がってくる足音がする。 約束だからまともに話すとしてもルーの事はわからない。海が絡んでいるような気はするが。 いっそ厄介払いに追い出してくれたら気が楽だ。 あの司祭には逆立ちしたって勝てない。オレはただのチンピラでロクデナシだ。 どうしようもない。じじいのような人物が前に立てばオレは下を向く以外にないんだ...
騒々しい音と共にドアが開けられた。 あの司祭にしてはずいぶん荒っぽい....
「げっ!!」
ブルーは思わずルーの顔を両手で覆った。
「デライラ、その格好...」
「うるさい!あんたの用事でわざわざ遠くまで行ったんじゃないさ。 全く道中ろくな商人がいやしない。クソみたいな服を着るくらいなら 脱いで歩いた方がマシよ」
「...お前その格好でずっと歩いて来たわけ?」
ルーを素早くベッドのシーツでぐるぐる巻きにしながらブルーは顔をしかめた。 旅用の外套の下はほとんど下着姿。 いや、普通にそれなら若い女だし悪いこっちゃない。ブルーの頭をよぎったのは それでいったい何人の男がどんな気の毒な目にあったのかという事だった。
「風呂入んな。くせえよ」
「あったり前でしょうが。あんたは当然ドレスの一枚でも今すぐ 調達してくるのよ。話はそれから。あ、極上のワインも忘れないで。 のんびりしたいから、このせこい部屋に花のひとつでも置いてちょうだい」
「居座るのかよ」
「お黙り!あたしは旅の疲れで機嫌が悪いのよ。ガタガタ言う気なら 全部の話をパーにしてやる」
「...店なんか開いてねえから着替えはそのへんのもんですませろよ。 酒はマスターからもらってきてやるって。 あ、風呂は共同だから他の宿の客も入ってくる。気をつけな」
「入ってきたら殺す」
「...ルー、お前見張ってろ」
「あんたのシャツ、安物ばっかじゃないの。それにちゃんと洗ってる?」
「馬鹿言うな。一応客商売だぞ」
不機嫌な顔でドアを閉めた。下に降りればまだ店はやっている。 酒とつまみを見繕って適当に機嫌をとるか。 うまく行けば司祭から逃げられる。
「や、ブルー殿〜。おったんか」
「わあっ!!」
「わあっ、てなんや、酒場に酒屋がおって驚くこたないやろ。 ...ってま、酒飲みもひとりおるけんどな、カーくん」
客も疎らな閉店間際、黒眼鏡の酒屋が黒衣の司祭の肩をばんばん叩いて笑った。 司祭は顔をしかめてグラスを呷っている。 ブルーは痣を髪で覆って横をすり抜けると、厨房へ向かった。
「なんやブルー殿、その顔どしたん」
カノンは素知らぬ顔で飲み続けている。グラスの中身は火酒のようだが お茶でも飲むように流し込んでいく。
「ナタさんこそ、こんな遅くに来るなんて珍しいじゃないですか。 あ、オレ、今夜はちょっと客があって...」
「いんや、俺らもちょい飲みに寄っただけやき、かまわんて なあ、カーくん」
「....」
カノンは黙って新しいボトルを開けた。
「なんなら一緒してもええで。あ、いやあかんか。こないな時間ちうことは...」
酒屋はブルーが抱えたワインを見て『来客』の性別を判断した。 カノンは黙ってボトルを半分空けている。 ブルーは苦笑いでチーズを皿に放りながらため息をついた。
「ちょっと何よ、あのひどい匂いの石鹸は!」
「うひゃ」「ぎゃっ」
階段の上から怒鳴る女に居合わせた客が全員顔を上げ カノンは黙ってボトルを空にした。
明らかに男ものの大きなシャツを羽織った半裸の若い女。 ブルーは酒瓶とチーズを引っ掴んで階段を駆け上がると 女を部屋に押し込んだ。
「ちょっと何すんのよ!」
ブルーは部屋の外に椅子や大きな靴棚を引っ張って置くと ひきつった笑顔で降りてきた。
「ええよ、ええよ、俺らの事はかまわんで。 ほれ、レディの機嫌損ねたら取り返すんは大変やで〜」
満面の笑顔の酒屋。
「ブルー殿もやるねえ。青臭いガキじゃと思うとったら」
「あ...青臭いって、ナタさんそんなじじくさい事を。 あなただってそんな年変わらんでしょうよ」
いささかムっとしてぼやく。カノンは無視して新しい酒瓶に手を 伸ばした。
「わはは!俺、もお90越えてるし、ブルー殿もカーくんもじゃりにしか見えんて。 ま、長寿の種族やから見た目はピチピチよ」
「...何がピチピチだ」
カノンがぼそりと言ってグラスを空けた。
「90...」
「ほれ、ブルー殿レディ待たせたらあかんがな。はよ行き」
「あ...ああ。すみません。気使わせちまって」
「俺も暇んなったらきれいどこ覗きいこ。ほならカーくん、帰ろか」
「ブルー殿」
カノンが立ち上がってブルーの背中に呼びかけた。
「約束を反故にしないように。そう言いに来ただけだ」
「............」
ブルーは聞こえない振りをしながらドアの前の椅子をどけた。 中から勢い良く開いたドアに思い切り頭をぶつけると そのままもの凄い勢いで引きずり込まれた。
「ありゃあ。こりゃまたごっついレディやな...ルーくんどうする気じゃ」
「ほっとけ」
マスターに支払いをしながらカノンが面倒そうに呟いた。 司祭ながら瑣末な事には本当に興味すらない。
「ブルー殿も逃げんとちゃんと元気におるやん。ええこっちゃよ。 知ってもうた以上、手は打たんと面倒増えるき」
「僕は本当に面倒で仕方ないよ」
「まあ、そう言わんと、また酒奢るき」
「支払ったのは僕だが」
「ええ、また次じゃ次...」
ブルーは二人が夜の街に紛れて行くのを窓から見ていた。
「はん、あんた張られてんじゃない」
ベッドを陣取ったデライラがワインを舐めながら呟く。 キャンドルの暗い灯りに黒髪の南方美女が浮かび上がる。 散らばった本や汚い壁は暗がりに隠されて別世界に見える安宿。
「だから街を出るって言ってるんだ」
「じゃ、早いとこ話進めるわ。このおちびちゃんも寝ちまった事だし」
「あんた疲れてんなら明日にしたらどうだ?」
「そのつもりだったけどさ...あんたあいつらに何か喋ったら 死んでもらうからそのつもりでいてね」
デライラが耳元で囁きながら彼の顔の痣に指先を添える。 不機嫌な顔でブルーはその指を取りくちづけた。
「よろしく、レディ。オレは死にたかないよ」
『レディ』は飲み干したグラスを置くともう一度窓に目を向けた。
「...それにしてもさ、あのふたりなんかきな臭くない? 男を見るのは得意なのよね」
「さあ、オレは何も知らねえよ。マジでさ」
「あんたお子様だもんね」
「なんでだよ」
『レディ』の肩に回しかけたブルーの手が止まる。 にんまり笑って彼女が言った。
「ストーカーやってんじゃないわよ」
「...えっ...」
「あんたの行動はとっくにチェック済みってコトよ。 妙な奴なんか引っ張り込んじゃアルファルドにあたしが殺されちまうもの。 それにしてもあんた、駄目。 見てるだけで口もきけないんだものねえ」
「....ほっといてくれ」
がくりと肩を落としてブルーは俯いた。
「さあ、とにかくあんた、今後の事話そうじゃないの。 アルファルドがあんたに物件も用意してくれてるわ。 潰れた街道沿いの店なんだけどさ、そこを拠点にしてそれから...」
ブルー、推定23歳。 デライラが彼を『チェリーボーイ』というコードネームで呼び アルファルドと話をしてきた事は知らない。
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