草原の満ち潮、豊穣の荒野
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43 幻の海〜フライ・ブルー

夕暮れ近い街角。
ブルーはいつものようにフードを深く被って
店へ向かう。

馴染み始めた空気。
風を楽しむ余裕はまだない。
乾いた風を感じる度に腰に下げた水瓶を
フードの上からぶちまけ通行人が振り返る。

青い男。

ヒダルゴでは黒い肌の人間があちこちで
力仕事をしているのが見られる。
ブルーの青白い肌も同じような扱いを受けていた。
珍しい唄を歌う流れ者の見せ物芸人。

正体不明よりいくらかマシな認識である。
王侯貴族のように丁重な扱いなどないが
そのへんをうろついていても『スラム』へ追い返される事も無い。
気楽な『街人』のひとり。
日常もまた然り。
尤も喰う為に某かのルールに従う必要はあったが。


「稼ぎにゃならんが喰いっぱぐれはなし、と」

情けない独り言を呟きながらブルーは通りを歩いて行く。
太陽さえ出ていなければ胸を張り堂々と歩いていただろう。
時折有色人種や人外を嫌う者が顔をしかめる以外
誰ひとり彼を咎めない。
妙に毛深い男がすれ違い様、笑って手を振った。

「ご同輩、元気かい」

「ああ、そっちは?」


互いに名も知らない。

やがて彼は雑多で賑やかな大通りに出た。
馬や数頭立ての大きな荷馬車が走って行く。
どこかの家の飼い犬が吠える。
猫が素早く馬の足下を走り抜けひやりとする。
どこかで馬追いの歌が聞こえる。
夕食用の足を縛られたうさぎがぶら下がった肉屋。
まるはだかの鳥が大中小並ぶ店頭。

色鮮やかな緑や赤の野菜を積んだ屋台の隣で
卵売りが大声を張り上げている。

ブルーの青は街の一色....




「あぶない!どいてくれー!!」

「馬を止めろ!!」


屋台主達があわてて屋台を奥に引き寄せ
ぼろぼろと果物や野菜が転がった。
ぐしゃりとりんごを踏みつぶす馬の蹄。

「どうどう!」


数人の男達が飛び出して暴れる馬を宥めにかかる。
ひとりが素早く馬に繋がっている荷車を切り離した。

「荷台が...うわーっ」

切り離された荷台はつんのめって御者は
屋台のりんごの山に飛び込む羽目になった。



「ひっでえ...」

ブルーがぼやきながら立ち上がる。
彼は今、誰が見ても青く見えなかった。
飛んで来た荷台の小麦粉を頭からひっかぶり
ゲホゴホと咳き込む姿はフライ前の食材。

彼は今し方ひっかけていた水の事を後悔した。

「大丈夫?」

背後から笑いを堪えているのがモロばれの呼び掛け。

「クソったれ、面白がってんじゃね.....」


これ以上無いくらい不機嫌な顔(ただし見た者は全員
見事に爆笑していたが)で彼は振り返った。

「......どうぞっ」

白いブラウスに黒いエプロン型スカート姿の若い娘。
彼女は短かい言葉と共にハンカチを差し出した。

「....」


色鮮やかなスカーフで覆った頭から
長い銀の髪が溢れて揺れる。
大きな瞳は金色。
清潔そうなハンカチは純白。

ブルーの脳裏を先日デライラに言った言葉がよぎった。



「ありがとう。あなたの方もお怪我は?」


繰り返すがブルーは自分の姿がどんな事になっているか
充分把握できていない。

「う、うん、大丈夫。ありがと」

若い娘の返答は短い。何故なら口を開いて笑い出すのが
あまりにも彼に対して気の毒であったから。

「申し訳ない。
これじゃハンカチがもう使えませんね...」

ブルーはフードを脱いで髪を素早く整えながら
謝罪した。日はほとんど暮れ、もうフードを脱いでも
問題ない...と言っても今のフライ食材状態ならば
真昼でも問題ないのだが。


「いいよ、どうせそのつもりだったから。それより
あーあ、これじゃ半分は台無し。店にも担いでかなきゃ
なんないか」

馬は既におとなしく引かれている。
前足を庇ってぎこちない。

「全く馬の蹄鉄の手入れがなっとらん!」

馬を取り押さえた男達が馬主をこんこんと説教して
荷どころではないようだ。


「私が手伝いますよ」

ブルーはひとつ粉袋を担ぐと笑顔で娘に尋ねた。

「どちらへ持って行けば?」

「...ぷ。あっごめん、えと、そこの通りの先にあるパン屋」


フライ・ブルーは一番重そうな粉袋を担いで歩き出した。

「あ、ほんとにいいの?」

娘はあわてて自分もひとつ持ち上げ歩き出した。
バランスが取れずよたよたと危なっかしい足取り。
小さめの粉袋はほとんど破れ、残ったのは大袋ばかり。

「娘さんがこんな重い物持つ事はない。
置いといて下さい。私がやりますよ」

ブルーは事もなげに担いで進む。
何往復か後、荷袋は無事パン屋の厨房へ辿り着いた。


「ありがとう。なんだかかえって大変な事
やってもらっちゃった」

「いいえ、大した事じゃありませんよ。あのくらい」

ブルーは笑って手を振った。

「待ってて、お礼に何か...」


娘は店内に飛び込みパンを探した。
生憎夕刻でほとんど残っていない。

「店長〜!もうなんにもないよ」

僅かばかりのパンをかき集めると彼女は店の外へ
飛び出した。

「あれ...?」


誰もいない。
すっかり夜になってもう彼の姿は何処に
紛れたか見当たらなかった。


「うわー。お礼もまともに言えなかったよ。
オレ」

「どうした?イザック」

パン屋の主人が手伝いの『少年』に声をかけた。

「いやさ、小麦運んでた馬車がひっくり返っちゃって
通りすがりの人が運ぶの手伝ってくれたんだ」

「またどっかで会ったら礼を言えばいいだろう」

「それがさ、顔全然わからなかった....」

「なんだそりゃ?」

「おまけに『娘さん』だって」


イザックと呼ばれた金の瞳の少年はスカートの端を
摘んで苦笑いした。


「娘っこの手伝い募集だったんだから仕方ないだろ。
嫌ならよそ、行くか?」

「いやあん」



店主がごそごそとカウンターに張られた小さな紙に
印を付ける。

「阿呆がまたひとり、と」

「ひでー、店長」

「オマエも面白がってる癖に何を言うか」

「そのぶん、たまに追っかけられるけどね」

「騙したなあっ!てか」

「そー、そー。」


笑いこけるふたりの男。



「...とは言え、店長。
ウチの店に小麦運んでくれたわけだしさ」

「わかってるって。なんか別に焼いとくから
持ってってやんな」

「だから、顔がわかんねーんだってば」

「いちいち粉ひっかけて探すわけにもいかんか。
ま、仕方ない。
下心があるなら通って来るだろ。
なけりゃ礼なんかいらねえと思うぜ」

「どっちもなんだかなあ、だよ...」






星空の下。

その頃ブルーは。

「めっちゃくちゃ重かった......」


拾った棒を杖代わりに突きながらよたよた歩く姿は老人。
たどりついた酒場の裏口へ回るのもおっくうで
入り口から入って行った。


素晴らしい唄い手は爆笑の渦でもって
迎えられた。
当の本人だけが洗面所の鏡に己の姿を見、がっくりと
肩を落としていた。


「...マジかよ......」


よく笑う明るく可愛らしい娘さんの笑顔はコレか。
フライ・ブルー。
気分はブルー。